その日、わたくしは同じ一文を三度読んでいた。
文字はきちんと目に入っている。意味も難しくない。それなのに次の行へ進む頃には、先ほど読んだ内容が頭から抜け落ちてしまう。
おかしいですね、と小さく首を傾げていると、向かい側で書類を確認していたフェルディナンドが顔を上げた。
「先ほどから一枚も進んでいないようだが?」
「確認に少し時間がかかっているだけです」
「それは午前中にも目を通した報告書だ」
指摘されて、わたくしは瞬いた。
確かに見覚えがある。けれど、いつ読んだのかがすぐには思い出せない。
「昨夜も本を読んでいたのか?」
「就寝時間は守りましたよ」
「では、なぜそのように眠そうなのだ」
「少し眠いだけです。春の終わりは暖かくて、眠くなることもあるではありませんか」
欠伸を隠しながら答えると、フェルディナンドの眉間に皺が刻まれた。
「君が新刊でもない書類を前に眠くなること自体は理解できる。だが、午前中に処理した内容を忘れるのは別の話だ」
「忘れたわけではありません。少し思い出すのに時間がかかっただけです」
「同じことだ」
フェルディナンドはわたくしの手から報告書を抜き取り、側仕えへ渡した。
「今日はここまでにする。残りは私が確認しよう」
「これくらいで執務を取り上げるなんて、過保護です」
「同じ書類を二度処理するアウブよりはましだ」
反論しようとして口を開いたものの、また欠伸が出そうになり、慌てて扇で口元を隠す。
その様子を見つめる金の瞳が、わずかに細められた。
フェルディナンドは机上の書類を取り上げると、側仕えに片づけるよう命じた。
「本日の執務は終わりだ。部屋へ戻って休め」
「これくらいで大袈裟です。わたくしはアウブなのですよ」
「アウブが執務机で昏倒すれば、側近に余計な仕事が増える。自覚を持て」
「眠っていただけです!」
不満を口にしてみたものの、身体が椅子から離れたがらない。仕方なく立ち上がると、足元がわずかに揺れた。
すぐに差し出された腕へつかまる。
「ほら見ろ」
「座ったまま眠っていたので、少し足が痺れただけです」
「君はいつもそう言う」
呆れた声とは裏腹に、腰を支える手はひどく慎重だった。
結局、その日は寝台へ押し込まれ、本を読むことすら禁じられた。
目を閉じたら負けだと思っていたはずなのに、気づけば夕鐘まで熟睡していた。
◇
翌朝、食卓に並んだ料理を見た途端、わたくしは顔をしかめた。
「この魚は、少し匂いが強くありませんか?」
側仕えたちが一斉に料理へ視線を向ける。
「今朝届けられたばかりのものでございます。毒見も済んでおります」
「そうですか。では、わたくしの気のせいですね」
そう答えたものの、どうしても手が伸びない。代わりに果物へ手を伸ばすと、向かい側から刺すような視線を感じた。
「何でしょう?」
「いや」
フェルディナンドはそれ以上何も言わなかった。
その日の午後、図書館の増築計画について話し合っている最中にも、また欠伸が出た。
口元を隠したつもりだったが、見逃してもらえるはずがない。
「昨日、休ませたはずだが?」
「きちんと休みました」
「それでなぜ、また眠そうにしている?」
「春ですから」
「今は夏だ」
「では、少し疲れているのでしょう」
「何をして疲れた?」
「アウブとしての執務を……」
「半分以上を私が処理している」
「図書館の計画を……」
「側近から、今日はまだ一枚も設計図を開いていないと報告を受けている」
逃げ道が次々と塞がれていく。
「いつもの体調不良ですよ。少し休めば治ります」
そう言うと、フェルディナンドの目がすっと細くなった。
「いつもの、か」
その言葉を最後に、彼は黙り込んだ。
◇
数日後、朝食の席で温かいスープの香りに胸がむかついた。
口元を押さえた途端、フェルディナンドが立ち上がる。
「医師を呼べ」
「必要ありません!」
「必要か否かを決めるのは君ではない」
「食欲がないだけです。少し眠くて、いつもより疲れやすくて、匂いが気になるだけではありませんか」
「それを体調不良と言うのだ!」
即座に反論され、わたくしはむっと頬を膨らませた。
しかし、医師が到着するまでの間、フェルディナンドはいつものように説教を始めなかった。
難しい顔で何かを考え込み、時折こちらを見ては視線を逸らす。
その落ち着かない様子の方が、わたくしにはよほど不安だった。
「フェルディナンド様?」
「何だ」
「もしかして、わたくしは重い病気なのでしょうか?」
「診察前に結論を出すな」
「けれど、フェルディナンド様がそのようなお顔をなさっているので……」
「私はいつもこの顔だ」
「今日は眉間の皺が一本多いです」
「数えるな」
やがて到着した医師は、いくつかの質問をした後、魔術具を使って丁寧にわたくしの身体を調べ始めた。
傍らではフェルディナンドが、一つひとつの動きを監視している。
診察が終わると、医師は少し緊張した面持ちで姿勢を正した。
「アウブ・アレキサンドリア」
「はい」
「現時点ではまだごく初期ではございますが、ご懐妊の可能性が極めて高いと存じます」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……懐妊?」
思わず、自分のお腹へ手を当てる。
もちろん、外から触れたところで何も分からない。
「ここに、子どもがいるのですか?」
「はい。もう少し日を置いて、改めて確認する必要はございますが……」
医師の説明が続いていたけれど、わたくしの耳にはほとんど入ってこなかった。
子ども。
わたくしと、フェルディナンド様の。
家族が、一人増える。
胸の奥に、温かいものがじわじわと広がっていく。
「フェルディナンド様」
呼びかけても、返事がない。
隣を見ると、フェルディナンドは表情を消したまま医師を見つめていた。
「母体への危険は?」
最初に出た言葉は、祝いでも喜びでもなかった。
「ロゼマインは元々虚弱だ。成長期には長くユレーヴェへ浸かっていた。今後、魔力や体力にどのような影響が出る? 避けるべき薬は? 執務はどこまで許される?」
「フェルディナンド様、落ち着いてくださいませ」
「私は落ち着いている」
どう見ても落ち着いていない。
医師は圧倒されながらも、休養が必要であること、今後しばらくは慎重に経過を見ること、魔力を大きく動かす行為は控えることなどを説明した。
「承知した。本日以降、礎への魔力供給は私が行う。執務は全て見直す。遠方への移動と転移陣の使用は禁止。食事も――」
「待ってください。全て禁止にするおつもりですか?」
「当然だ」
「わたくしは病人ではありません!」
「先ほどまで『いつもの体調不良』だと言い張っていた者が何を言う」
反論できずに口を閉じる。
医師と側仕えたちが退出すると、部屋にはわたくしとフェルディナンドだけが残された。
先ほどまで矢継ぎ早に指示を出していた彼は、急に黙り込んだ。
「……フェルディナンド様は、うれしくありませんか?」
不安になって尋ねると、金の瞳が大きく見開かれた。
「なぜ、そうなる?」
「一度も、うれしいとおっしゃっていません」
「それどころではなかった。君の身体に危険がないか確認する方が先だ」
フェルディナンドは深く息を吐き、わたくしの前へ跪いた。
そして、壊れやすい魔術具へ触れるように、おそるおそるわたくしのお腹へ手を添える。
その指先は、ほんの少し震えていた。
「……うれしくないはずがない」
ひどく小さな声だった。
「だが、君を失う可能性を考えると、手放しで喜ぶことなどできぬ」
「わたくしは、いなくなりません」
「君のその言葉には、何の保証もない」
「では、フェルディナンド様が守ってくださいませ」
「言われるまでもない」
即答だった。
顔を上げたフェルディナンドの目には、喜びと不安と、見たことのないほど深い慈しみが混ざっていた。
わたくしは彼の手へ、自分の手を重ねる。
「男の子でしょうか。女の子でしょうか」
「まだ分からぬ」
「本を好きになってくれるでしょうか」
「生まれる前から余計な期待を背負わせるな」
「まずは読み聞かせ用の絵本を作らなければなりませんね」
「作らなくてよい。既に城の図書室を埋め尽くすほどある」
「子ども専用の図書室も必要です」
「必要ない」
「胎教として、毎日読み聞かせを――」
「その前に君は休め」
抱き上げられたわたくしは、そのまま寝台へ運ばれた。
「まだ昼にもなっていませんよ」
「先ほど眠いと言っていただろう」
「少し眠いだけです」
「その言葉は、今後一切信用しない」
毛布を掛けられ、本も取り上げられる。
不満を訴えようとしたけれど、寝台の脇へ腰掛けたフェルディナンドが、まだお腹から手を離せずにいることに気づいた。
わたくしはその手を握り、目を閉じる。
「おやすみなさいませ、フェルディナンド様」
「ああ。安心して眠れ」
いつもの体調不良だと思っていた。
けれど、いつもとは違う温もりが、まだ何も変わらないはずのお腹の奥に宿っている。
そして、わたくしが眠りへ落ちる直前まで、フェルディナンドの手が離れることはなかった。
