わたし達の家族

子どもについて話す2人のSS


ルッツが帰宅すると、マインは食卓の前で頬杖をついていた。

夕食はほとんど手付かずで、視線は開いた本へ向けられている。けれど、先ほどから一度も頁がめくられていない。

「マイン」

呼びかけても、反応がない。

ルッツは溜息を吐くと、背後から身を屈め、マインの頬を指でつついた。

「ひゃっ! ルッツ、いつ帰ってきたの?」

「今。……じゃねぇな。お前が三回溜息を吐くのを聞いてからだ」

「数えてたの?」

「数えられるくらい、でかい溜息だったんだよ」

向かいの椅子へ腰掛けたルッツは、マインの前に置かれた皿を見る。

「具合が悪いのか?」

「ううん。そうじゃないよ」

「じゃあ、何があった?」

「……何も」

マインが目を逸らす。

昔から、隠し事が下手なのは変わらない。

「オレに言えないことか?」

少しだけ声を低くすると、マインは困ったように眉を下げた。

「…今日、市場でね。近所のおばさん達に、子どもはまだなのかって聞かれたの」

ルッツの表情が消えた。

誰に言われた、と問い詰めかけて、やめる。今は相手への文句より、目の前で俯いているマインの方が大事だった。

「それで?」

「結婚して何年も経つのにって。ルッツは商人だから、店や工房を継ぐ子も必要だろうって言われて……」

細い指が、膝の上でぎゅっと組み合わされる。

「ルッツは、子どもが欲しかった?」

あまりに小さな声だった。

「……欲しかったって言ったら、お前はどうするんだ?」

「どうにかできないか、神官長に相談する。わたしの魔力をもっと減らしたり、薬を作ってもらったりすれば――」

「マイン」

「それでも駄目なら、身体をもっと丈夫にする方法を――」

「マイン!」

強い声に、肩が跳ねる。

ルッツは立ち上がって食卓を回ると、マインの前へ片膝をついた。

「そんな顔で言うな」

「……どんな顔?」

「また、自分が我慢すればいいって思ってる顔だ」

マインは何か言おうとしたが、言葉にならなかった。

ルッツは組み合わされた手を解き、その冷えた指を両手で包む。

「オレが欲しかったのは、お前との子どもじゃない」

その瞬間、マインの顔が歪んだ。

「違う。最後まで聞け」

逃げようとした手を、少しだけ強く握る。

「オレが欲しかったのは、マインと一緒に生きることだ」

伏せられていた金色の瞳が、ゆっくりと上がった。

「朝、お前を起こして、ちゃんと飯を食わせて、仕事に行って、帰ってきたら今日あったことを話す。休みの日には一緒に市場へ行って、また勝手に本や変な材料を買おうとするお前を止める」

「変な材料じゃないよ。どれも本作りには必要で――」

「そこは今、反論するとこじゃねぇだろ」

いつものように言い返してきたマインに、ルッツは少し笑った。

「そうやって、ずっと一緒に暮らしたかった。だから結婚したんだ。跡継ぎを産ませるためじゃない」

「でも、ルッツは子どもが好きでしょう?」

「好きだよ」

即答され、マインの目が揺れる。

ルッツはその額へ自分の額を軽く当てた。

「けど、お前より大事なわけじゃねぇ」

触れ合った額から、ルッツの温度が伝わってくる。

「子どもが欲しいからって、お前が倒れるような薬を飲んだり、命懸けで産んだりするのを、オレが喜ぶと思うのか?」

「……思わない」

「だろ?」

「でも……ルッツと、二人で子育てをしてみたいなって思ったの」

「何だよ、それ」

「ルッツはきっと、良いお父さんになるもの」

ぽつりと零すと、ルッツはしばらく黙っていた。

やがて、包んでいた手を引かれる。

椅子から下りたマインは、そのままルッツの胸へ抱き込まれた。

「マインだって、良い母親になる」

「わたしは本を読んでいたら、子どものご飯を忘れるかもしれないよ?」

「オレが声をかける」

「読み聞かせを始めたら、夜更かしさせちゃうかも」

「オレが二人まとめて寝かせる」

「欲しい本があったら、子どものおもちゃ代まで使っちゃいそう」

「それは絶対に止める」

「むぅ……」

笑いを含んだ声が、耳元へ落ちてくる。

「二人だけでも家族だ。いつか家族を増やしたいって二人で思ったら、その時に方法を考えればいい」

「……孤児を引き取る、とか?」

「それもいいかもしれないな。商人になりたい奴なら、オレが仕事を教えられる。お前は読み書きと計算を教えればいい」

「本作りも!」

「それは本人が望んだらな」

「きっと望むよ。本作りは楽しいもん」

「お前みたいなのがもう一人増えたら、オレの苦労が倍になるだろ」

呆れた声とは裏腹に、抱き締める腕は優しい。

マインはルッツの胸へ頬を寄せた。

「……ありがとう、ルッツ」

「礼を言うとこじゃねぇよ」

「大好き」

ルッツの腕が一瞬固まった。

結婚して何年経っても、マインが素直に好意を口にすると、ルッツは弱い。

「急にそういうこと言うなよ」

「どうして? 夫婦なんだから、言ってもいいでしょう?」

顔を上げ、赤くなったルッツの頬へ口づける。

「…っ」

「なぁに?」

「……それで終わりか?」

「それでって――」

顎をすくわれ、言葉が途切れた。

重なった唇は温かく、すぐに離れるかと思ったのに、背へ回された腕がマインを逃がさない。

「ん……ルッツ……」

ようやく離れた時には、息も頬も熱くなっていた。

「頬だけで誤魔化すな」

「誤魔化してないよ。ちゃんと好きって――」

もう一度、今度は先ほどよりも深く口づけられる。

マインがルッツの服を掴むと、応えるように抱き締める力が強くなった。

何度か啄むように唇を重ねてから、ルッツは名残惜しそうに額を合わせる。

「オレは今の生活が幸せだ」

「……わたしも」

「本当に?」

「本当だよ。ルッツと家族になれて、幸せ」

そう答えると、ルッツは安堵したように笑った。

「じゃあ、今日はもう仕事も本も終わりな」

「え? まだ夕食も途中だよ?」

「……明日の朝にする」

「それなら、今から何を――」

言い終わる前に、ルッツの腕が背中と膝裏へ回った。

軽々と抱き上げられ、マインは慌ててその首へしがみつく。

「ルッツ!?」

「子どものことで悩む必要はないって、もう少しちゃんと教える」

「ど、どうやって?」

ルッツは寝室へ向かいながら、腕の中で真っ赤になっているマインへ笑いかけた。

「オレがお前と二人で、どれだけ幸せなのか伝えるんだよ」

返事を待たず、また唇が重なる。

その夜、二人の家では、開いたままの本の頁がめくられることはなかった。