それを見つけたのは、アレキサンドリア西部にある古いギーベの館だった。
領地再編に伴う記録の確認と、長年使われていない書庫の整理。その指揮を執るため、フェルディナンドはユストクスと共に館を訪れていた。
書庫に収められているのは、古い収支報告や土地の記録が大半である。保存状態が悪いものも多く、歴史的な価値はあっても、すぐに役立つ資料は少なかった。
「こちらの棚は、先代のさらに二代前の物のようですね」
ユストクスが、埃を避けながら木箱を開ける。
「分類がなされていない。内容を確認し、年代順に整理させなさい」
「かしこまりました」
フェルディナンドは別の棚へ視線を移した。
奥に、周囲とは異なる素材で作られた箱がある。保存のための魔術具だったらしいが、既に魔力は尽きていた。
蓋を開くと、中には布で包まれた一冊の本が収められている。
表紙は傷んでいたものの、頁の状態は悪くない。
慎重に開けば、古い時代のアーレンスバッハ周辺を描いた地図と、各地を巡った者の記録が記されていた。
海岸線。
今は使われていない街道。
領地の境界が現在とは異なっていた頃の記述。
各地に存在した神殿や祠についても、簡単な挿絵と共にまとめられている。
「ほぅ……」
フェルディナンドは頁をめくった。
記録としての価値は高い。現在の地形や領地の歴史と比較すれば、新たに判明することもあるだろう。
だが、何より目を引いたのは、細密に描かれた挿絵だった。
植物。
街並み。
儀式に用いられていたらしい道具。
本文を読めなくても、頁を眺めるだけで十分に楽しめる。
ローゼマインが喜ぶであろう。
自然に浮かんだ考えに、フェルディナンドの指が止まった。
珍しい本を見つければ、自分で内容を確かめたいと思うのは当然だ。研究に利用できるか、資料として価値があるかを判断する必要もある。
だが、今はそれより先に、ローゼマインの顔が思い浮かんだ。
この頁を見れば、きっと目を輝かせる。
古い地図を前にして、現在との違いを調べたいと言い出すだろう。挿絵の技術を印刷へ応用できないかと考え、工房へ持ち込む相談を始めるかもしれない。
恐らく、最初から最後まで読むまで離そうとしない。
「フェルディナンド様?」
ユストクスの声に、フェルディナンドは顔を上げた。
「何だ?」
「ずいぶんと興味深い本のようでございますね」
「ああ。領地の歴史を調べる上で有用な資料だ」
「城へお持ち帰りになりますか?」
「そのつもりだ。傷みがあるので、このまま運ぶのは避けた方がよい。保護用の箱を用意させなさい」
「かしこまりました」
ユストクスは素直に従った。
その口元に浮かんだわずかな笑みについて、フェルディナンドは追及しないことにした。
◇
アレキサンドリア城へ戻ったのは、三日後の夕刻だった。
フェルディナンドは執務室へ向かう前に、二人の居室へ足を運んだ。
視察中に届いた報告書は多い。急ぎの案件もあるだろう。普段ならば、先に仕事の状況を確認する。
しかし、古書の入った箱を自分の側仕えへ預けたまま、執務を始める気にはなれなかった。
「ローゼマインは?」
「奥の部屋で読書をなさっています」
リーゼレータの返答に頷き、扉を開ける。
ローゼマインは長椅子へ座り、本を読んでいた。フェルディナンドの姿を認めた途端、本を閉じて立ち上がる。
「おかえりなさいませ、フェルディナンド様。視察はいかがでしたか?」
「大きな問題はなかった。詳細は後で報告する」
「ずいぶんとお疲れでしょう。先にお茶を――」
「君に見せたいものがある」
ローゼマインが目を瞬かせた。
言葉にしてから、フェルディナンドはわずかに居心地の悪さを覚えた。
領地運営に必要な資料を持ち帰った。確認するよう命じるだけでよかったはずだ。
見せたい、などと口にする必要はない。
けれど、既に発してしまった言葉を取り消すこともできない。
「わたくしにですか?」
「ああ」
側仕えから箱を受け取り、卓上へ置く。
「古いギーベの館で見つけた。まだ完全な修復は済んでいない。扱いには気をつけなさい」
本だと気づいたローゼマインの目が、一瞬で輝いた。
「開けてもよろしいですか?」
「そのために持ってきた」
ローゼマインは箱を開け、布を丁寧に取り除いた。
古い表紙が現れる。
「まあ……」
吐息のような声が漏れた。
壊れやすいものに触れるように、そっと表紙を撫でる。最初の頁を開いた瞬間、ローゼマインは息を呑んだ。
「地図です! 今とは境界も街道も違いますね。こちらは、昔の神殿でしょうか?」
「本文には、当時の儀式についても記されている。今は残っていない祠の記述もあった」
「読みたいです。今すぐ最初から読んでもよろしいですか?」
「構わぬが、頁を傷めるな」
「もちろんです!」
予想どおりの反応だった。
ローゼマインは頁をめくるたび、感嘆の声を漏らす。
「この植物は、今もアレキサンドリアにあるのでしょうか?」
「形状が多少異なるが、似たものはある」
「こちらの挿絵も素敵です。印刷で再現できれば、新しい図鑑が作れそうではありませんか?」
「まずは内容の検証が先だ。古い記録をそのまま正しいと思うな」
「でしたら、一緒に調べましょう」
ローゼマインが顔を上げる。
「フェルディナンド様も、この本をお読みになりたいのでしょう?」
「資料として確認する必要はある」
「では、一緒に読めばよいですね」
彼女は長椅子の隣を空けた。
フェルディナンドは一瞬、執務室に積まれているであろう書類を思い浮かべる。
だが、今すぐでなければならない案件があれば、既に報告が届いているはずだ。
半刻程度ならば問題はない。
そう判断して、ローゼマインの隣へ腰を下ろした。
「どこまで読んだ?」
「まだ最初の地図だけです。こちらの街は、現在どの辺りになるのでしょう?」
「河川の位置から考えれば、この辺りだろう」
二人で本を覗き込む。
ローゼマインは本文と地図を何度も見比べ、気になる箇所を見つけるたびにフェルディナンドへ尋ねた。
フェルディナンドは答えながら、時折、彼女の横顔へ視線を向ける。
古書を見つけた時に想像したとおり、ローゼマインは喜んでいる。
だが、想像していたよりもずっと嬉しそうだった。
自分が見つけた本を抱え、目を輝かせている。
その姿を見たかったのだと、今なら認められる気がした。
「フェルディナンド様」
「何だ?」
「この本を見つけた時、わたくしが喜ぶと思いましたか?」
思いがけない質問に、フェルディナンドは視線を本へ戻した。
「君が珍しい本を喜ばぬはずがなかろう」
「では、わたくしに見せようと思ってくださったのですね?」
「アウブが領地の歴史を知ることは当然だ」
「それだけですか?」
ローゼマインが覗き込んでくる。
以前ならば、それだけだと答えていただろう。
領地の資料だから。
図書館に保存する価値があるから。
彼女の研究へ役立つから。
理由はいくらでも挙げられる。
けれど、古書を開いた瞬間に浮かんだのは、そのような判断ではなかった。
「……君がどのような顔をするのか、見てみたいとは思った」
ローゼマインは目を丸くした。
それから、花が開くように笑った。
「期待どおりでしたか?」
「ああ。予想どおり騒がしい」
「ひどいです!」
口では抗議しながらも、ローゼマインの笑顔は消えない。
「でも、嬉しいです。フェルディナンド様が、わたくしに見せたいと思ってくださったことが」
「大げさに喜ぶようなことではない」
「わたくしには大事なことなのです」
ローゼマインは再び本を開き、フェルディナンドの腕へ肩を寄せた。
「次に何か見つけた時も、最初にわたくしへ見せてくださいね」
「君に見せる価値がある物ならばな」
「約束ですよ」
「勝手に約束へ変えるな」
そう答えながら、断るつもりはなかった。
珍しい本。
新しい素材。
見たことのない魔術具。
変わった植物や、美しい景色。
今後、何かを見つけるたびに、ローゼマインならばどのような反応をするのか考えるのだろう。
見せたいと思う。
喜ぶ顔が見たいと思う。
そして、その顔を最初に見る者でありたいと望む。
「フェルディナンド様、次の頁をご覧ください」
「ああ」
ローゼマインが示す先へ目を向けながら、フェルディナンドはわずかに口元を緩めた。
見せたいものが増えるたび、自分が帰る理由もまた一つずつ増えていく。
それは、悪くない変化だった。
