ささやかな嫉妬と、フェルディナンド様の重たい独占欲をひと匙……
「義母様、本日はありがとう存じます。」
「フロレンツィア様。本日は細やかなお心遣いを賜り、感謝いたします」
別れの挨拶をするフェルディナンドは、非の打ち所がないほど優雅だった。
その隣で微笑みながら、ローゼマインはほんの少しだけ首を傾げる。
――フロレンツィア様、なのですね。
考えてみれば当然である。フロレンツィアはアウブ・エーレンフェストの第一夫人。公の場で礼を尽くすのは当たり前だ。
それなのに、転移の間へ戻って二人きりになってからも、なぜか胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
「……フェルディナンド様は、フロレンツィア様にはずいぶん丁寧なのですね」
何気なく口にしたつもりだった。
けれど、前を歩いていたフェルディナンドがぴたりと足を止める。
「何だ、藪から棒に」
「いえ。いつも養父様には遠慮がないのに、フロレンツィア様には『様』を付けるのだな、と思っただけです」
「公の場でアウブの第一夫人を呼ぶのだ。当然であろう」
呆れたように返され、ローゼマインは「そうですよね」と頷いた。
納得したはずなのに、その声は自分でもわかるほど沈んでいた。
再び歩き出そうとしたところで、手首を捕らえられる。
「では、そなたもそう呼ばれたいのか?」
「え?」
フェルディナンドは殊更に恭しく腰を折り、ローゼマインの手を取った。
「アウブ・アレキサンドリア様。どうぞ、お手を」
普段とは違う、よそよそしいほど完璧な笑み。
胸がきゅっと縮んで、ローゼマインは反射的に手を引こうとした。
「嫌です」
「自分から望んだのであろう?」
「望んでいません! その呼び方は……何だか、フェルディナンド様が遠くなったようで嫌です」
そう訴えると、彼の目がわずかに細められた。
逃がすまいとするように、手首に触れていた指が下へ滑る。掌を重ね、一本ずつ確かめるように指を絡められた。
「ならば、二度とそのような顔をするな」
「そのような顔とは、どのような顔ですか?」
「他の女への呼び方が気に入らぬ、と訴える顔だ」
「ち、違います! ただ珍しいと思っただけで――」
慌てて否定するローゼマインの言葉を遮るように、絡んだ指へ力が込められた。
「理由など、どちらでもよい」
低く落とされた声に、顔を上げる。
「そなたを役職で呼ぶ者も、敬称を付けて呼ぶ者も、いくらでもいる。だが――」
フェルディナンドは繋いだ手を持ち上げ、その指先へ触れるだけの口づけを落とした。
「何の隔てもなく、その名を呼べる者は多くない」
金色の瞳が、真っ直ぐにローゼマインを捉える。
「私は、最も近くでそなたの名を呼ぶ者でありたい」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
理解した途端に顔が熱くなり、ローゼマインは空いている方の手で頬を押さえる。
「……フェルディナンド様は、時々ずるいです」
「そなたが妙なことを気にするからであろう」
何事もなかったように歩き出した彼の耳が、ほんの少し赤い。
それを見つけてしまったローゼマインは、今度こそ離されないように、絡んだ指をきゅっと握り返した。
すると、フェルディナンドの足が止まる。
「……何だ?」
「何でもありません。ただ、もっと近くにいたいと思っただけです」
先ほどの言葉を返したつもりだった。
けれどフェルディナンドは、なぜか眉間を押さえて深く息を吐く。
「そなたは、本当に……」
呆れた声とは裏腹に、繋いだ手は離されない。
それどころか腕を引かれ、気付けばローゼマインの体は彼の胸元へ引き寄せられていた。
「ふぇ、フェルディナンド様?」
彼は答えず、まず転移の間へ続く廊下を見回した。人影がないことを確かめると、外套を広げるようにしてローゼマインを壁際へ隠す。
「誰にも見られぬように、という配慮を台無しにするなよ」
「何の――」
問い終える前に、顎へ指を添えられた。
金色の瞳がゆっくりと近づく。
唇が重なったのは、ほんの一瞬。
けれど離れた後も額が触れ合うほど近く、ローゼマインは息をすることさえ忘れて彼を見つめた。
「……これで、私が最も近いと理解したか?」
低く囁かれ、ようやく止まっていた思考が動き出す。
「い、今のは確認のためですか?」
「そうだ」
「では、あまりに短すぎて、よくわかりませんでした」
言ってから、とんでもないことを口にしたと気付いた。
逃げようとしても、腰へ回された腕がそれを許さない。
フェルディナンドは驚いたように目を見開いた後、ひどく愉しそうに目を細めた。
「なるほど。確認が足りぬか」
「待ってください。今のは言葉の綾で――」
「ならば、そなたが確信できるまで確かめればよかろう」
今度の口づけは、先ほどよりもずっとゆっくりだった。
繋いだ指へ力が込められる。
触れているだけなのに、そこから熱が広がるようで、ローゼマインは目を閉じて彼の衣を掴んだ。
やがて唇が離れても、フェルディナンドはローゼマインを腕の中に閉じ込めたままだった。
「……まだ足りぬか?」
吐息の触れる距離で尋ねられ、ローゼマインは真っ赤になって首を横に振る。
「じゅ、十分です」
「そうか。私はまだ足りぬが」
再び顔を寄せる彼に、ローゼマインは慌てて胸を押した。
「転移の間へ戻らなければ、皆が心配します!」
「先ほど、最も近くにいたいと言ったのはそなたであろう?」
「このような意味ではありません!」
「私はこのような意味で受け取った」
そう言って、フェルディナンドは逃げ道を塞ぐように外套を広げる。
誰の目にも触れないその陰で、三度目の口づけが落とされた。
