四人で歩く下町

下町でルツトゥリ✕フェルマイな、お忍びデートSS


「もう一度、確認するぞ」

ルッツは腕を組み、目の前に立つ二人を順番に見た。

「今日はアウブも領主候補生もいない。いるのは、久しぶりに故郷へ帰ってきたマインと、その夫のディーノさんだ」

「なぜ私がそのような名で呼ばれなければならぬ?」

「下町でフェルディナンドなんて名乗ったら、貴族ですって言ってるようなもんだろ」

「もう少しましな名はなかったのか?」

「マインが決めた」

フェルディナンドが隣へ鋭い視線を向ける。

ローゼマイン――今は下町の服をまとったマインは、笑いを堪えるように口元を押さえていた。

「似合っていますよ、ディーノさん」

「戻ったら覚えていなさい」

「今日はお忍びですから、貴族らしい脅し方は禁止ですよ」

すぐさま言い返すマインを見て、ルッツが懐かしそうに目を細める。

「二人とも、そんなところで言い合ってないで。出発が遅くなっちゃうよ」

トゥーリがマインの肩へ薄い布を掛けた。

下町の女性が身につける、ごく普通の衣装である。

紺色の髪は、結い方も装飾の多い貴族のものではなく、長い髪を緩く編み、トゥーリが用意した簡素な髪留めでまとめている。

「どうかな? これなら、ちょっと裕福な商人の奥さんくらいに見えると思うよ」

「ありがとう、トゥーリ。久しぶりにマインに戻った気がするよ」

「マインはマインだよ」

あまりにも自然に告げられた言葉に、マインの表情が柔らかくなる。

その様子を、フェルディナンドは黙って見つめていた。

「フェルディ……ではなく、ディーノさんも、よくお似合いですよ」

トゥーリが少し緊張しながら声をかける。

フェルディナンドは、商人が着る上等な衣服をまとっていた。

質を落としすぎれば本人の立ち居振る舞いと釣り合わず、かえって怪しまれる。そのため、他領から来た裕福な商人という設定になった。

だが、服装を変えても背筋はまっすぐで、周囲を見る目は鋭い。

「服は似合ってるけど、立ち方が全然商人じゃないな」

ルッツが言った。

「ならば、商人はどのように立つ?」

「少なくとも、道を歩く人間全員を敵か護衛対象かに分けたりしない」

「周囲の状況を把握するのは当然だ」

「そういうところだよ」

ルッツが額を押さえる。

マインはフェルディナンドを見上げ、笑顔で腕へしがみついた。

「これなら、妻との外出に慣れていなくて緊張している夫に見えるんじゃない?」

「誰が緊張していると?」

「ふふっ。では、わたくしがこうしていても平気ですね」

フェルディナンドは自分の腕に絡みつくマインの手を見下ろした。

振りほどくことはせず、わずかに腕の角度を変えて歩きやすくする。

「勝手にしなさい」

その返事を聞いて、ルッツとトゥーリが顔を見合わせた。

「……出会った頃から、こんな感じだったのか?」

「ううん。昔のマインは、神官長が怖いって言ってたよ」

「聞こえているぞ」

フェルディナンドの低い声に、四人の間へ笑いが広がった。

建物を出ると、昼前の下町は多くの人で賑わっていた。

大通りには野菜や布、日用品を売る店が並び、客を呼び込む声が飛び交っている。食事を売る屋台からは香ばしい匂いが漂い、荷車と人々が忙しなく行き交っていた。

マインは目を輝かせて周囲を見回す。

「見てください! あちらに珍しいお店があります。」

「前を見て歩け」

「そこまで心配しなくても――」

言いかけた時、人波が二人の間を横切った。

フェルディナンドの手が、即座にマインの手首をつかむ。

そのまま自分の側へ強く引き寄せた。

「やはり、手を離すべきではないな」

「今のは、ほんの少し人が通っただけですよ」

「理由などどうでもよいので、離れないように」

フェルディナンドはマインの手首から手を滑らせ、そのまま指を絡めるようにつないだ。

少し前を歩いていたルッツが振り返り、重なった二人の手へ目を留める。

「そうしていると、本当に普通の夫婦みたいだな」

「みたい、って……。わたし達は本当に夫婦だよ?」

マインが首を傾げると、ルッツは少し考えるように視線を巡らせた。

「そういう意味じゃない。いつもの二人は、どう見たってアウブとその夫だろ。でも今は、休みの日に連れ立って魚を食いに行く、そこらの夫婦に見えるってことだ」

「そこらの夫婦……」

マインはつながれた手を見下ろした。

領主の執務室でも、儀式の壇上でもない。身分を示す衣装も、周囲に控える側近たちもない。

ただ夫と手をつなぎ、二人で同じ場所へ向かって歩いている。

そう思うと、胸の奥がむずむずとくすぐったくなった。

「とても仲のよい夫婦に見えるよ」

隣でトゥーリが微笑む。

フェルディナンドは二人の言葉を吟味するようにわずかに目を細めたあと、当然のことを告げるように言った。

「実際に夫婦なのだから、不自然ではあるまい」

「ディーノも、普通の夫婦に見えるのが嬉しい?」

マインが見上げると、フェルディナンドは答える代わりに、絡めた指へ少しだけ力を込めた。

「其方は余計なことを考えず、前を見て歩け。また道を間違えるぞ」

「まだ一度も間違えてないよ」

「先ほど、逆方向へ進もうとしていただろう」

「あれは面白そうなお店が見えたからで――」

二人の言い合いを聞きながら、ルッツは小さく笑って前を向いた。

「やっぱり、仲のいい夫婦じゃないか」

「気のせいだ」

フェルディナンドが冷たく切り捨てる。

その直後、向かいから大きな荷物を抱えた男が近づいてきた。

ルッツは振り返ることもなく、後ろへ手を伸ばした。

トゥーリも慣れた様子でその手を取り、二人は自然に道の端へ寄る。

声を掛け合うことすらない。

「ルッツとトゥーリは、いつもそうするの?」

マインが尋ねる。

「人が多い時はな」

「はぐれたら困るもの」

二人にとっては、特別なことではないらしい。

フェルディナンドはつないでいたマインの手へ、さらに力を込めた。

「フェ…じゃなくって、ディーノ?」

「気をつけなさい」

しばらく歩くと、マインが屋台の前で足を止めた。

平たいパンに焼いた腸詰めと野菜を挟んだものが並べられている。

「いい匂い〜」

「お前、さっき食べたばかりだろ」

「屋台の食べ物は別腹だよ、ルッツ」

「昔から変わらないな」

呆れながらも、ルッツは店主へ四つ注文する。

フェルディナンドは渡された品を、警戒するように見下ろした。

「本当に、これを食べるのか?」

「下町の屋台は初めてですか?」

「衛生状態が確認できぬ物を、好んで口にする理由がない」

「焼きたてですから大丈夫ですよ。ん〜おいしい。」

マインは先に一口かじり、満足そうに頬を緩めた。

「ほら、食べてみてください」

自分の持っていたものを、フェルディナンドの口元へ差し出す。

フェルディナンドは動かなかった。

「フェル……ディーノさん?」

「其方は、自分が何をしているのかわかっているのか?」

「味見を勧めています」

「……そうか」

周囲を一度確認したあと、フェルディナンドは差し出された部分へ口をつけた。

マインが目を輝かせる。

「どうですか?」

「香辛料の配合は悪くない。焼き加減も適切だ。ただし、パンはもう少し薄い方が食べやすい」

「おいしいのですね」

「改善点を述べただけだ」

「フェルディナンド様が、本当に嫌な物をそれほど詳しく分析しないことは知っています」

「ディーノだと言ったであろう」

言い合う二人の隣では、トゥーリの口元についたソースをルッツが指で拭っていた。

「トゥーリ、ついてる」

「あ、本当? ありがとう」

あまりにも自然な仕草だった。

それを見ていたマインは、自分の口元をそっと押さえる。

「わたくしにはついていませんか?」

「……ついていない」

フェルディナンドはそう答えたあと、懐から布を取り出した。

マインの口元を丁寧に拭う。

「今、ついていないとおっしゃいませんでしたか?」

「念のためだ」

「ルッツを見て真似をなさったのでは?」

「其方は、私がルッツから女性の扱いを学ぶ必要があると本気で思っているのか?」

「下町での扱いならば、ルッツの方が詳しいと思います」

フェルディナンドの眉間に皺が寄る。

ルッツは巻き込まれないように顔を背けたが、肩がわずかに震えていた。

屋台を離れ、四人は布や小物が並ぶ店へ向かった。

トゥーリが新しい髪飾りに使えそうな素材を見ている間、マインも隣で色とりどりの紐や布を手に取る。

「この青色、きれい」

深い海を思わせる青色の紐だった。

「マインには、こっちの方が似合うと思うよ」

トゥーリが差し出したのは、少し淡い色合いの布である。

「そうかな?」

「うん。でも、今の青色も、誰かがずっと見ているみたいだけど」

トゥーリの視線を追うと、少し離れた場所に立つフェルディナンドと目が合った。

彼が見ていたのは、マインが手にしている深い青の紐だったらしい。

フェルディナンドは店主へ値段を尋ねる。

だが、提示された額に対して、アレキサンドリアの金貨を出そうとした。

「待った!」

ルッツがその腕を止める。

「こんな店で金貨なんか出したら怪しまれるぞ」

「では、どうすればよい?」

「渡しておいた小銭の方から使うんだよ」

フェルディナンドは不本意そうに小さな革袋を取り出し、硬貨を一枚ずつ確認する。

魔術具の複雑な計算ならば一瞬で終える男が、下町の硬貨を前に真剣な顔をしていた。

「フェルディナンド様。わたくしが払いますよ」

「其方は黙っていなさい」

「でも――」

「夫が妻へ贈る物を、なぜ妻自身に払わせなければならぬ?」

店主が微笑ましそうに二人を見る。

マインは頬を赤くして口を閉じた。

支払いを終えたフェルディナンドは、深い青色の紐をマインへ差し出す。

「其方が選んだ物だ」

「似た色の物ならば、館にもたくさんありますよ」

「同じ物ではない」

「ですが――」

「今日、其方と共に選んだ物は、これだけだ」

マインは言葉を失った。

それから紐を胸元へ大切そうに抱き締める。

「ありがとうございます。大切にしますね」

「ああ」

二人の様子を見ていたトゥーリが、嬉しそうに笑った。

その隣でルッツが小さく息を吐く。

「俺達、案内役として必要だったか?」

「下町のお金を教えてあげたでしょう?」

「それ以外は、二人で勝手に楽しんでるように見えるぞ」

「それなら、わたし達も楽しめばいいよ」

トゥーリがルッツの腕へ手を回す。

ルッツは少し照れたように視線を逸らしたが、その手を外そうとはしなかった。

夕刻が近づく頃、四人は川沿いの道へ出た。

一日中賑わっていた街が、少しずつ夕餉の支度へ移っていく。あちらこちらの煙突から煙が上がり、家々の窓に明かりが灯り始めていた。

マインは懐かしい景色を眺めながら歩く。

少し先では、ルッツとトゥーリが並んでいた。

ルッツが荷物を持ち、トゥーリは今日買った布について楽しそうに話している。時折視線を交わし、どちらからともなく笑う。

「幸せそうですね」

マインが呟く。

「そうだな」

「ルッツもトゥーリも、子供の頃からずっと一緒だったんです。こうして夫婦になっても同じように笑っているのを見ると、何だか不思議です」

フェルディナンドが隣を歩くマインを見下ろす。

「其方も、子供の頃からずいぶん変わった」

「そうでしょうか?」

「あの頃のマインは、私の言いつけを守らず、興味を持った物へ突進し、すぐに倒れる厄介な子供だった」

「今もあまり変わっていないような言い方ですね」

「実際、根本的なところは変わっていない」

「では、わたくしと夫婦になったことを後悔していますか?」

マインが冗談めかして問いかける。

だが、フェルディナンドは笑わなかった。

足を止め、つないでいた手を引く。

マインが振り返ると、薄い金色の瞳がまっすぐに自分を見つめていた。

「そのようなことを、一度でも私が口にしたか?」

「……いいえ」

「マインが変わっていようと、変わっていなかろうと関係ない。私はマインを選んだ」

夕日を背にしたフェルディナンドの表情は、ひどく真剣だった。

マインの頬が熱くなる。

「突然、そのようなことをおっしゃるのはずるいです」

「其方が尋ねたのであろう」

「もう少し軽く答えてくださると思っていました」

「くだらぬ問いを口にした其方が悪い」

先を歩いていたルッツが振り返る。

「二人とも、何してるんだ? 置いていくぞ」

「今、行く!」

マインはフェルディナンドの手を引き、二人のもとへ駆け出した。

「走るのではない。転ぶぞ」

「フェルディナンド様が支えてくださるのでしょう?」

「ディーノだ。最後まで設定を忘れるな」

「もう周りには誰もいませんよ」

「護衛はいる」

遠く離れた場所で、下町の者に扮したエックハルトが、聞こえないふりをして顔を背けた。

四人は川沿いの低い壁へ腰掛けた。

ルッツとトゥーリが隣り合い、その少し横へマインとフェルディナンドが座る。

マインはフェルディナンドの肩へそっと頭を預けた。

「重いな」

「嫌なら離れます」

「誰も離れろとは言っていないではないか」

フェルディナンドはそう言って、マインの肩へ腕を回した。

前では夕日に染まった川が静かに流れている。

「今日は楽しかったね、マイン」

トゥーリが微笑む。

「うん。二人とも、案内してくれてありがとう」

「次はどこへ行きたい?」

「市場も工房も、もっとゆっくり見たいな。それから、父さんと母さんの家にも――」

「待て。次があることは決定なのか?」

フェルディナンドが口を挟む。

マインは肩へ頭を預けたまま、彼を見上げた。

「楽しくありませんでしたか?」

「予定どおりに進まぬことが多く、効率は悪かった」

「では、もう行きたくありませんか?」

フェルディナンドは答えず、マインの髪に結ばれた青い紐へ触れる。

今日、二人で選んだ物。

「……次回は、もう少し早く出発するべきだな」

マインの顔が輝いた。

「はい!」

ルッツとトゥーリが顔を見合わせ、声を立てて笑う。

その意味がわからず眉を寄せるフェルディナンドの隣で、マインも楽しそうに笑った。

領主でも、神官長でも、商人でも、職人でもない。

ただ大切な相手と手をつなぎ、同じ景色を見て過ごす一日。

四人の影が寄り添うように、夕暮れの道へ長く伸びていた。

海の街で、魚の塩焼きを

「今日、下町では“様”をつけちゃ駄目だからね」

トゥーリは念を押すように言った。

「わかってるよ。今日はわたしがマインで、フェルディナンド様が――」

「もう間違えてるぞ」

ルッツがすぐさま指摘する。

マインは慌てて隣を見上げた。

商人らしい衣装をまとったフェルディナンドが、険しい表情でこちらを見下ろしている。

「ええと……ディーノ」

呼んだ瞬間、フェルディナンドの眉がわずかに動いた。

「本当に、その名でなければならぬのか?」

「フェルディナンドなんて、下町では目立ちすぎるだろ」

「もう少し他になかったのか?」

「マインが決めたんだぞ」

ルッツの言葉に、フェルディナンドの視線が再びマインへ向けられる。

マインは笑顔で彼の腕へ手を回した。

「似合ってるよ、ディーノ」

「……其方は楽しんでいるな?」

「うん。すごく」

アレキサンドリアの下町を歩けるだけでも嬉しいのに、フェルディナンドを呼び捨てにしても怒られないのである。

楽しくないはずがない。

「夫婦っていう設定なんだから、ディーノもマインに敬語を使ったり、妙にかしこまった態度を取ったりしないでね」

トゥーリが言う。

「私が其方らに敬語を使ったことなどないと思うが?」

「そういう意味じゃなくて……」

言葉に詰まったトゥーリへ、ルッツが助け船を出す。

「とにかく、偉そうに命令するなってことだ。周りから見れば、アウブでも貴族でもない。ただの商家の夫婦なんだからな」

「偉そうにしているつもりはない」

「それで普通なのか……」

ルッツが頭を抱えた。

部屋を出ると、海から吹き込む風がマインの紺色の髪を揺らした。

アレキサンドリアの下町は、エーレンフェストとは全く違っていた。

石造りの建物が並ぶ道の向こうに、青い海が見える。通りには魚や貝を売る店が多く、荷車には見たことのない海産物が積まれていた。

漁から戻った者の声。

商人が値段を交渉する声。

魚を焼く匂いと、潮の香り。

そのすべてが新鮮で、マインは右へ左へと忙しく顔を動かした。

「すごい! 見て、ディーノ。あのお店、大きな魚が丸ごと並んでる!」

「見えている。前を向いて歩きなさい」

「こちらの貝は、エーレンフェストにはありませんでしたよね? どんな味がするのでしょう?」

「マイン、そっちは今日行く店と逆方向だぞ」

ルッツに言われ、マインは足を止めた。

「そうなの?」

「道を知らないのか?」

フェルディナンドが呆れた声を出す。

「知らないよ。アレキサンドリアの下町を歩くのは初めてだもの」

「領主であろう」

「領地の地図と主要な建物の位置は把握していますよ。でも、どの路地にどんなお店があるかまでは知りません」

「其方ならば、城から見える範囲だけでも全て理解していると思っていた」

「そんなことできませんよ」

「では、先ほど迷わず逆方向へ進もうとしたのは何だ?」

「面白そうなお店が見えたからですね」

「それを方向音痴と言うのだ」

言い合っている間に、人を避けて歩いていたルッツが後ろへ手を伸ばした。

トゥーリは慣れた様子でその手を取る。

二人はつないだ手を間に、細い路地へ入っていった。

「マイン、はぐれるなよ」

ルッツに声をかけられ、マインも後を追おうとする。

その前に、フェルディナンドがマインの手を取った。

「ディーノ?」

「道を知らぬのであれば、勝手に離れるのではない」

「ルッツとトゥーリについていけば大丈夫だよ」

「君は興味の引く物を見つければ、すぐに別の方向へ進むであろう」

フェルディナンドの指が、逃がさないようにマインの指へ絡む。

「これなら、はぐれませんよね」

「ふむ…最初から、こうするべきであったな」

「ディーノが手をつなぎたかっただけじゃないんですか?」

「君の安全を確保するためだ」

「今日は護衛もいますか?」

「遠くに配置している。即座に対応できるとは限らぬ」

護衛の姿は見えない。

けれど、エックハルトやアレキサンドリアの騎士たちが、下町の者に扮して周囲へ散っている。

「でも、ディーノが一緒なら安心ですね」

マインが握られた手を揺らす。

フェルディナンドは一瞬だけ黙り、

「……そうであろう」

と答えた。

ルッツの案内でいくつもの路地を抜けると、小さな広場へ出た。

海に面した場所に、簡素な屋台が並んでいる。

その一角から、炭と魚の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。

「ここだ」

ルッツが示した先では、串に刺した魚が炭火の上に並べられていた。

銀色の皮へ粗い塩が振られ、脂が炭へ落ちるたびに小さな炎が上がる。

「魚の塩焼き!」

マインの顔が輝いた。

「前に食べたいって言っていただろ」

「覚えていてくれたの?」

「何度も言われたからな。ベンノさんに新鮮な魚を食べられる店を聞いたら、ここを教えられた」

「ルッツ、ありがとう!」

マインが勢いよくルッツへ近づこうとすると、つないでいた手に力が加わった。

「ディーノ、痛いよ」

「勝手に離れるなと言ったばかりだ」

「ルッツにお礼を言おうとしただけだよ」

「言葉で十分であろう」

「言葉で言ったよ」

「ならば近づく必要はないではないか」

フェルディナンドの不機嫌そうな声を聞き、ルッツが少しだけ口元を上げた。

「ほら、早く注文しよう。売り切れるぞ」

四人分の魚を注文すると、屋台の男が焼き上がったばかりの魚を一本ずつ差し出した。

紙などないため、大きな葉の上に魚が置かれている。

マインは立ち上る湯気と香りに、目を輝かせた。

「いただきます!」

「待て」

口をつけようとしたところを、フェルディナンドに止められる。

「何ですか?」

「骨がある。不用意に食べれば、喉へ刺す可能性が高い」

「魚の食べ方くらい知ってるよ」

「なぜ知っている?」

マインは答えず、串から魚を外した。

箸はないが、指先を汚さないよう慎重に魚を開く。背骨を取り除き、小さな骨も避けながら、器用に身をほぐしていく。

「ほら」

きれいに骨と身が分けられた魚を見せると、フェルディナンドは目を細めた。

「君は、妙なところで未知の技術を発揮するな」

「魚の食べ方は技術ってほどじゃないよ」

「マインは昔から、魚を食べたがっていたもんな」

ルッツが懐かしそうに言う。

「エーレンフェストでは、なかなか新鮮な魚が手に入らなかったから」

マインはほぐした身を一口食べた。

皮は香ばしく、塩味の中に魚の脂の甘さが広がる。

「おいしい……!」

思わず両手で頬を押さえる。

「すごくおいしいよ、ディーノ! 焼いただけなのに、ちゃんと魚の味がする!」

「魚なのだから、魚の味がするのは当然であろう」

「そういう意味じゃないよ。新鮮だから臭みがないの。塩だけで十分おいしい!」

マインは一番きれいに骨を取った身をつまみ、フェルディナンドの口元へ差し出した。

「食べてみて?」

フェルディナンドは動きを止める。

「自分で食べられる」

「でも、ディーノはまだ骨を取れていないでしょう?」

「その程度、見ればできる」

「冷めちゃうよ」

マインがさらに手を近づける。

フェルディナンドは周囲へ目を向けた。

ルッツとトゥーリは、自分たちの魚を食べている。

屋台の男も次の魚を焼くことに忙しく、こちらを見ていない。

それを確認してから、フェルディナンドは差し出された魚を食べた。

「どう?」

「……悪くない」

「おいしいってことだね」

「そうは言っていない」

「ディーノは本当に素直じゃないね」

マインが笑いながら、次の身を自分の口へ運ぶ。

隣ではルッツが、トゥーリの魚から細かな骨を取り除いていた。

「トゥーリ、こっちにまだ骨があるぞ」

「本当? 気づかなかった」

「危ないから、先に渡せ。俺が取る」

「ルッツは心配しすぎだよ」

「前に喉へ刺さったって騒いでただろ」

「子供の頃の話でしょう?」

そう言いながらも、トゥーリは自分の魚をルッツへ渡した。

ルッツは慣れた手つきで魚を開き、骨を取り除く。

フェルディナンドはその様子を見てから、マインの手元へ視線を戻した。

マインはすでに半分ほど食べ終えている。

「貸せ」

「何を?」

「其方の魚だ」

「自分で食べられるよ」

「細い骨が残っている」

フェルディナンドはマインの返事を待たず、魚を受け取った。

自分の魚にはまだほとんど手をつけていないのに、マインの分を細かく調べ始める。

「ディーノ。わたしは魚を食べ慣れているって、今見せたよね?」

「先ほどの身にも、一本細い骨が残っていた」

「気づいて避けたよ」

「気づかず口に入れた可能性もある」

「でも――」

「黙って待っていろ」

「偉そうに命令しちゃ駄目だって、ルッツに言われていたよ」

フェルディナンドの手が止まる。

ルッツが吹き出し、トゥーリも口元を押さえて笑った。

「……少し待っていろ、マイン」

フェルディナンドが言い直す。

自分の名を呼び捨てにされたことが、くすぐったい。

マインは笑みを深めて頷いた。

「うん。ありがとう、ディーノ」

骨を取り終えたフェルディナンドは、食べやすくほぐした魚をマインへ返す。

マインが一口食べるのを確認してから、ようやく自分の魚へ手を伸ばした。

「ディーノの魚も、わたしが骨を取ろうか?」

「必要ない」

「取ってもらったお返しだよ」

「其方は自分の分を食べていろ」

「では、おいしいところだけあげる」

マインは自分の魚から脂の乗った身を選び、フェルディナンドの葉の上へ置いた。

「勝手なことをするな」

「いらないの?」

フェルディナンドは答えず、その身を口へ運んだ。

屋台の男が二人を見て笑う。

「仲のいい夫婦だな。新婚か?」

「はい!」

マインが即答する。

フェルディナンドはわずかに目を見開き、それから咳払いをした。

「……そのようなものだ」

「何年経っても仲がいいのが一番だ。嬢ちゃん、こいつを旦那に食わせてやれ」

店主は小さな魚をもう一本、マインへ差し出した。

「こっちの方が脂が乗ってる」

「ありがとうございます!」

マインは受け取った魚をフェルディナンドとの間へ置いた。

「二人で食べよう、ディーノ」

「其方はまだ食べるのか?」

「これはディーノに食べさせてあげる分だよ」

「私を巻き込むな」

そう言いながら、フェルディナンドは新しい魚の骨を取り始めた。

食事を終え、四人は海沿いの道を歩いた。

夕方の光が水面へ反射し、港へ戻る船がゆっくりと進んでいる。

ルッツとトゥーリは少し先を歩いていた。

トゥーリがルッツの肩へ頭を寄せ、ルッツは空いた手で彼女の腰を支えている。

「ルッツとトゥーリ、楽しそうだね」

マインが言う。

「其方も十分に楽しんでいたであろう」

「うん。すごく楽しかった」

「それならばよい」

フェルディナンドは、魚の匂いが残らないよう浄化をかけたマインの手を取った。

先ほどまでと同じように指を絡める。

「もう、人も少ないよ。はぐれないと思うけど?」

「其方は道を知らぬ」

「でも、ディーノも下町の道は知らないでしょう?」

「私は一度通った道を間違えぬ」

「わたしだって、帰り道くらい覚えてるよ」

「先ほど、魚屋を出てすぐに逆方向へ進もうとしたのは誰だ?」

「あちらにも面白そうな屋台が見えたからだよ」

「それを迷ったと言うのだ」

マインは頬を膨らませた。

それでも、つながれた手を離そうとは思わなかった。

「ディーノ」

「何だ?」

「また、四人で来たいね」

フェルディナンドは少し先を歩くルッツとトゥーリを見る。

それから、海を眺めながら笑うマインへ視線を戻した。

「魚の塩焼きならば、城の料理人にも作らせられる」

「お城で食べるのとは違うよ。海を見ながら、四人で食べたからおいしかったの」

「同じ魚であろう」

「ディーノはわかってないね」

「何をだ?」

「大切な人と一緒に食べたら、おいしいものがもっとおいしくなるの」

フェルディナンドは答えなかった。

ただ、つないでいた手に少しだけ力を込める。

「……次は、其方が途中で別の店へ逸れぬよう、事前に道順を決める」

「それって、また連れてきてくれるってこと?」

「道順を決めると言っただけだ」

「次は貝も食べたいな。あと、今日見かけた大きな魚も」

「一度に食べられる量を考えろ」

「ディーノと半分ずつにすれば、たくさんの種類を食べられるよ」

「私は其方の食事量を増やすための道具ではない」

言葉とは裏腹に、フェルディナンドは次に来ることを否定しなかった。

マインは彼の腕へ体を寄せる。

四人の前には、夕日に染まったアレキサンドリアの海が広がっていた。