朝から、城の中はいつもと違っていた。
普段より多くの側仕えが出入りし、衣装の皺や髪飾りの位置を何度も確認している。鏡の前に座るマイネリーネは、落ち着かない様子で自分の白い衣装を見下ろした。
「リーゼレータ」
「はい、姫様」
「今日のわたくしは、きちんと貴族に見えますか?」
リーゼレータは髪を整えていた手を止め、鏡越しに優しく微笑んだ。
「もちろんでございます。けれど、姫様は昨日までも立派な領主一族の御子でございましたよ」
「でも、今日からは皆がわたくしの名前を知るのでしょう?」
「ええ。洗礼式を終えれば、姫様はマイネリーネ様として公に認められます」
これまで、家族とごく限られた者しか知らなかった名前。
今日からは多くの貴族がその名を呼び、マイネリーネもまた、一人の貴族として自分の言葉と行動に責任を持つことになる。
「リーゼレータも、今日からわたくしをマイネリーネ様と呼ぶのですか?」
不安そうな声に、リーゼレータは少しだけ目を細めた。
「公の場では、そのようにお呼びいたします」
「公ではない場所では?」
「これまでどおり、姫様と」
マイネリーネは安堵したように笑った。
「よかったです。皆の呼び方が一度に変わってしまったら、わたくしではない者になってしまうような気がします」
「お呼びする名が変わっても、姫様が姫様であることに変わりはございませんよ」
リーゼレータが最後の髪飾りを挿したところで、扉が開いた。
正装したローゼマインとフェルディナンドが入ってくる。
「まあ、よく似合っていますね、マイネリーネ」
ローゼマインは嬉しそうに娘の姿を見回した。
フェルディナンドも衣装や髪を一通り確認した後、小さく頷く。
「問題ない。礼の手順は覚えているか?」
「はい、父様」
「挨拶の文句は?」
「昨夜も確認いたしました」
「緊張したときほど、動作を急ぐな。相手の言葉を最後まで聞いてから答えよ」
「フェルディナンド様。朝からあまり詰め込まないでくださいませ。マイネリーネが緊張してしまいます」
「必要な確認だ」
マイネリーネは鏡越しに両親を見つめた。
母は今にも抱き締めそうな顔をしていて、父はいつも以上に厳しい顔をしている。けれど、父が緊張しているときほど眉間の皺が深くなることを、マイネリーネは知っていた。
「母様、父様」
「何でしょう?」
「手をつないでいただいてもよろしいですか?」
ローゼマインはすぐに右手を差し出した。
フェルディナンドは一瞬だけ目を見開いた後、何も言わずに左手を取る。
「大丈夫ですよ、マイネリーネ」
「習ったとおりにすればよい」
二人の手に挟まれると、胸の奥で暴れていた鼓動が少しずつ落ち着いた。
◇
洗礼式は滞りなく進んだ。
大広間へ入ったマイネリーネは、大勢の貴族から注がれる視線に足を止めることなく、教えられたとおりに歩いた。
名を問われれば、顔を上げて答える。
「アウブ・アレキサンドリアと、その配偶者フェルディナンドの第一子、マイネリーネでございます」
澄んだ声が大広間へ響いた。
濃紺の髪と淡い金の瞳を持つ姫君が正式に披露されると、集まった貴族たちが祝福の言葉を捧げる。
式の間、ローゼマインは何度も涙ぐみそうになり、そのたびに扇で口元を隠した。
隣に立つフェルディナンドはいつもどおり無表情に見えたが、マイネリーネが一つ手順を終えるたび、わずかに目元を緩めている。
最後の挨拶まで終えたマイネリーネが両親の前へ戻ると、フェルディナンドは他の者に聞こえない声で告げた。
「よく務めた」
それだけだった。
けれど、マイネリーネの顔には、今日一番の笑みが浮かんだ。
◇
洗礼式の後、マイネリーネは両親の側近たちと改めて対面することになった。
幼い頃から何度も顔を合わせてきた者ばかりである。それでも、今日はこれまでとは違う。
マイネリーネはローゼマインとフェルディナンドの間に立ち、一人の貴族として側近たちを迎えた。
最初に進み出たのはハルトムートとクラリッサだった。
「マイネリーネ様。洗礼式を無事に迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます」
二人が揃って礼を取る。
いつもなら目が合うだけで「姫様」と笑いかけてくるクラリッサまで、今日は厳粛な表情をしていた。
「ありがとう存じます。これからも父様と母様を支えてくださいませ」
「命ある限り、お仕えいたします」
ハルトムートは感極まった様子で顔を上げた。
「女神の化身たるローゼマイン様の御子が、このように立派な洗礼式を――」
「ハルトムート」
フェルディナンドが低い声で名を呼ぶ。
「本日は祝いの日です。少しくらい、よいのではございませんか?」
「簡潔にせよ」
「……かしこまりました」
マイネリーネは笑いそうになるのを堪え、次に進み出たコルネリウスへ向き直った。
「マイネリーネ様。本日の佳き日をお迎えになられましたこと、心よりお慶び申し上げます」
これまで何度も自分を抱き上げてくれた騎士が、今日は深く頭を下げている。
「コルネリウス」
「はい」
「今日は、姫様とは呼ばないのですね」
コルネリウスがわずかに目を見開いた。
「洗礼式を終えられたマイネリーネ様は、本日より一人の貴族でございます。正式な場では、お名前でお呼びするのが相応しいかと存じます」
「では、もう抱っこをお願いすることもできませんか?」
周囲の空気が少しだけ和らいだ。
コルネリウスは困ったように微笑む。
「マイネリーネ様は、もうご自分で歩けるお年でございましょう」
「そうですね」
「ですが、もしお怪我をされたり、ご自分で歩けないようなことがございましたら、私が必ずお運びいたします」
「母様のように倒れるつもりはありません」
「それがよろしいかと存じます」
「其方まで私を見るのはなぜですか、コルネリウス兄様」
ローゼマインが不満そうに口を挟み、何人かの側近が小さく笑った。
マイネリーネも笑みを浮かべた後、改めて表情を整える。
「コルネリウス。これまで母様を守ってくださり、ありがとう存じます。これからは、わたくしのことも導いてくださいませ」
「はっ。マイネリーネ様が正しい道を歩まれるよう、力を尽くしてお支えいたします」
続いて進み出たエックハルトは、他の者より短く祝いを述べた。
「姫様。洗礼式を無事に終えられましたこと、お慶び申し上げます」
マイネリーネは少し意外そうに瞬いた。
「エックハルトは、姫様と呼ぶのですね」
「私はフェルディナンド様の側近でございます。洗礼式を終えられても、姫様がフェルディナンド様の大切な御子であることに変わりはございません」
その答えに、マイネリーネは嬉しそうに頷いた。
「これからも父様をお願いいたします」
「お任せくださいませ」
「でも、父様が無理をなさるときは、きちんと止めてくださいね」
エックハルトの返答が止まった。
フェルディナンドが目を細める。
「誰からそのようなことを聞いた?」
「母様とリーゼレータとユストクスです」
「ローゼマイン」
「わたくしだけではありません」
今度は側近たちが揃って視線を逸らした。
最後に進み出たユストクスは、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。
「姫様。このたびは誠におめでとうございます」
「ユストクスも姫様なのですね」
「お名前でお呼びすべき場では、マイネリーネ様とお呼びいたしますよ。ただ、今の私はフェルディナンド様の側近として、主の姫君へご挨拶しておりますので」
「呼び方にも、立場が表れるのですね」
「左様でございます。その者がどの立場から、どのような気持ちで呼びかけているのか。よくお聞きになれば、名前一つからでも多くのことが分かります」
マイネリーネは真剣な表情で頷いた。
「では、ユストクスが姫様と呼ぶときは、わたくしを父様の娘として見ているのですか?」
「それだけではございません」
「ほかにもあるのですか?」
「幼い頃、私の道具袋を開けようとしてフェルディナンド様に叱られた、好奇心旺盛な姫様としても拝見しております」
「ユストクス」
フェルディナンドの低い声が響く。
「余計なことを教えるな」
「すでに姫様ご自身が覚えておいでですよ」
「はい。父様と一緒ならば見てもよい、と許可をいただきました」
「まだ覚えていたのか……」
フェルディナンドが眉間を押さえる。
マイネリーネは楽しそうに笑った後、ユストクスへきちんと向き直った。
「これからは、父様のお許しをいただいてから珍しい物を見せてくださいませ」
「かしこまりました、姫様」
◇
両親の側近たちとの挨拶を終えると、今度はマイネリーネ自身に仕える側近候補たちが進み出た。
緊張で顔を強張らせた同年代の子どもたちが、一人ずつ名乗り、礼を取る。
「マイネリーネ様にお仕えできますことを、心より光栄に存じます」
先ほどまでの側近たちとは違う。
彼らは幼いマイネリーネを知っているから仕えるのではない。これから主従として共に学び、成長していく者たちである。
マイネリーネは一人ずつ顔を見て、それぞれの名を心の中で繰り返した。
「わたくしは、まだ学ぶべきことの多い身です。皆と共に成長し、アレキサンドリアのために励みたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします」
小さな主の言葉に、側近候補たちは深く頭を下げた。
全ての対面を終え、家族だけの控室へ戻った途端、マイネリーネは大きく息を吐いた。
「緊張しました」
「最後までよくできましたよ」
ローゼマインは我慢できないとばかりに娘を抱き締めた。
「母様、髪が崩れてしまいます」
「もう式は終わりましたから、少しくらいよいではありませんか」
「甘やかしすぎだ」
そう言いながらも、フェルディナンドは娘を引き離そうとはしない。
マイネリーネは母の腕の中から父を見上げた。
「父様。わたくしは今日から、一人の貴族になったのでしょうか?」
「ああ」
「では、もう子どもではないのですか?」
「その二つは両立する。貴族として扱われるようになったが、其方がまだ庇護と教育を必要とする子どもであることに変わりはない」
「それならば、父様にも抱っこをお願いできますか?」
フェルディナンドが黙り込む。
「マイネリーネは、もうご自分で歩けるお年ですよ」
先ほどコルネリウスが口にした言葉を、ローゼマインが笑いながら繰り返した。
マイネリーネは少し考えてから、両腕を父へ伸ばす。
「今日はたくさん頑張りました」
フェルディナンドは小さく息を吐き、ローゼマインの腕から娘を抱き上げた。
「今日だけだ」
「はい、父様」
「おそらく明日も同じことを言いますよ」
「君は黙っていなさい」
マイネリーネは父の肩へ頬を寄せ、満足そうに目を閉じた。
公の場では、アウブ・アレキサンドリアの第一子、マイネリーネ様。
父の側近にとっては、大切な主の姫様。
母にとっては、その名にマインの面影を宿す愛娘。
呼び方はそれぞれ違っていても、込められた慈しみまで変わるわけではない。
洗礼式を終えたその日、マイネリーネは一人の貴族として多くの者と向き合い、同時に、自分がこれまでと変わらず愛されていることを知った。
