フェルマイで、5学年時の時かけ後にフェル様のところにマインちゃんが戻ってくるお話
光が弾けた。
始まりは、それだけだった。
何もなかったはずの転移陣に複雑な魔力の線が走り、淡い金色の柱となって立ち上る。
フェルディナンドは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
傍らで待機していたユストクスが息を呑み、エックハルトが剣の柄に手をかける。だが、フェルディナンドには二人を制する余裕すらなかった。
光の中に、小さな影が見えた。
見慣れた紺色の髪。
白い頬。
祈りを捧げるように胸元で組まれた両手。
そして、ゆっくりと開かれた金色の瞳。
「……フェルディナンド様?」
聞き違えるはずのない声だった。
転移陣の中央で、ローゼマインが目を瞬いている。
フェルディナンドは動かなかった。
動けなかった、と言う方が正しい。
幾度も想像した光景だった。
執務の最中に不意に転移陣が光ることも、夜半に彼女からオルドナンツが届くことも、何事もなかったように扉が開いて「ただいま戻りました」と言われることも。
そのすべてを、愚かな願望として切り捨ててきた。
期待すれば判断を誤る。
希望は計画に含めるものではない。
戻る保証のない者を待つなど、何の益もない。
そう自分に言い聞かせながら、彼女が消えた日から一度として、転移陣のある部屋を無人にはしなかった。
「フェルディナンド様」
もう一度、ローゼマインが呼んだ。
今度の声は少し不安げだった。
「わたくし……きちんと戻ってこられたのですよね?」
その言葉に、ようやく体が動いた。
フェルディナンドは転移陣へ足を踏み入れた。魔力の残滓を警戒することも、彼女の状態を慎重に確認することも忘れ、細い腕をつかむ。
温かい。
幻影ではない。
確かな肉体が、そこにあった。
「痛いです、フェルディナンド様」
抗議する声さえ、記憶の中のものと同じだった。
「……ずいぶんと、遅い帰還だな」
自分の口から出た声は、驚くほど冷静だった。
ローゼマインは一瞬だけ目を見開き、それから、困ったように眉を下げた。
「わたくしも急いだのですよ? けれど、時の女神の御力が関わることですもの。自分の都合で帰還時期を選ぶことなどできません」
「言い訳は聞いていない」
「言い訳ではなく、事情の説明です」
「同じだ」
「違います」
帰ってきたばかりだというのに、いつもどおり言い返してくる。
その事実に安堵した自分が腹立たしくて、フェルディナンドは眉間の皺を深くした。
「帰還直後に叱られるとは思いませんでした」
「叱られるようなことをした自覚がないのか?」
「わたくしは女神に課せられた役目を果たしてきたのですよ。むしろ褒められてもよいと思います」
胸を張ってそう主張するローゼマインを見下ろす。
確かに大きな怪我は見当たらない。魔力にも深刻な乱れはないようだ。頬は以前より少し痩せて見えるが、瞳の光は失われていない。
無事だ。
本当に、戻ってきた。
そう認識した途端、彼女の腕をつかんでいた指先から力が抜けた。
ローゼマインが、そっとフェルディナンドの手に触れる。
「……ご心配をおかけしました」
先ほどまでの反論とは異なる、ひどく柔らかな声だった。
「ただいま戻りました、フェルディナンド様」
その一言で、丹念に築き上げていたものが崩れた。
何が起きたのか理解できなかったのだろう。ローゼマインが目を見開く。
フェルディナンド自身も、理解するまでにわずかな時間を要した。
気づけば彼女の体を引き寄せ、腕の中に閉じ込めていた。
細い体は簡単に胸元へ収まった。
腕に力を込めれば壊してしまいそうで、それでも緩めれば、またどこかへ消えてしまいそうだった。
「フェ、フェルディナンド様?」
戸惑った声が近すぎる場所から聞こえる。
「少し黙れ」
「ですが……」
「黙っていろ。今は、其方の声を聞くと腹が立つ」
本当は違った。
声を聞くたびに、戻ってきたことを思い知らされる。
温もりを感じるたびに、この腕の中が空だった時間を思い出す。
待っていたなどと言うつもりはない。
不安だったとも、恐ろしかったとも、二度と失いたくないとも言えるはずがない。
ただ、彼女を抱く腕に、どうしても力が入った。
しばらくして、胸元から小さな声がした。
「フェルディナンド様の手、震えていますね」
反射的に体を離そうとしたが、今度はローゼマインがフェルディナンドの背へ腕を回した。
逃がさないように抱きつく、小さな腕。
「何の真似だ?」
「わたくしが帰ってきたことを、きちんと確認していただいているのです」
「もう確認は済んだ」
「わたくしはまだです」
「其方は相変わらず勝手だな」
「フェルディナンド様にだけは言われたくありません」
くぐもった声に、わずかな笑いが混じる。
それからローゼマインは、フェルディナンドの胸元へ頬を寄せたまま、囁くように言った。
「もう、どこにも行きません」
その言葉を信じるほど、フェルディナンドは楽観的ではない。
ローゼマインは厄介事に愛されている。本人にその気がなくとも、王族や神々や書物に連れ去られる可能性はいくらでもある。
ならば、必要なのは約束ではない。
二度と彼女を奪われないための手段だ。
「……当然だ」
フェルディナンドは再び腕に力を込めた。
「其方を再び失うなど、私が許さぬ」
ローゼマインが顔を上げる。
驚きに揺れる金色の瞳を間近に見つめてから、フェルディナンドはその額へ唇を落とした。
ほんの一瞬、触れるだけの口づけ。
それでもローゼマインの頬は見る間に赤くなった。
「な、何を……」
「帰還を確認しただけだ」
「先ほど、もう確認は済んだとおっしゃいました!」
「追加の確認が必要になった」
「そのような確認方法は聞いたことがございません!」
先ほどまでとは違う意味で慌て始めたローゼマインを見て、フェルディナンドはようやく息を吐いた。
胸の奥を塞いでいた冷たい塊が、少しずつ溶けていく。
けれど、まだ言えなかった。
ずっと待っていた、と。
戻ってきてくれてよかった、と。
だから代わりに、彼女の頬へ手を添える。
「おかえり、ローゼマイン」
ようやく告げられた言葉に、彼女は泣きそうに目を細めた。
「はい。ただいま、フェルディナンド様」
今度こそ、その言葉はまっすぐに彼の胸へ届いた。
帰還を待っていた者たち
「……大変、感動的なご帰還でございましたね」
わざとらしく感慨深げな声が響いた。
ローゼマインは弾かれたようにフェルディナンドから離れようとした。だが、腰に回された腕はびくともしない。
声の主を睨みつけたフェルディナンドの目には、先ほどまでの柔らかさなど欠片も残っていなかった。
「ユストクス」
「はい、旦那様」
「いつから見ていた?」
「転移陣が光り始めた頃からでございます」
「最初からではないか!」
ローゼマインの声が裏返る。
「お二人の再会を邪魔してはならないと思いまして。ほら、わたくしは空気の読める側仕えでございますから」
胸に手を当て、ユストクスは実に爽やかな笑みを浮かべた。
「どこがですか! 空気が読める者は、今のような言い方をしません!」
「おや。では、もう少しお待ちした方がよろしかったでしょうか?」
「そういう意味ではありません!」
真っ赤になって抗議するローゼマインに、ユストクスの笑みがますます深くなる。
「相変わらず元気なようだな、ローゼマイン」
それまで黙っていたエックハルトが、安堵を押し殺したような声で言った。
剣の柄から手を離してはいるが、転移陣を見る目にはまだ警戒が残っている。ローゼマインが無事であることを喜びながらも、フェルディナンドを守るために異変がないか確かめているのだろう。
「はい。エックハルト兄様にもご心配をおかけしました」
「俺のことはどうでもいい。フェルディナンド様がどれほど――」
「エックハルト」
低い声が遮った。
エックハルトは口をつぐみ、フェルディナンドへ視線を向ける。対するフェルディナンドの眉間には、険しい皺が刻まれていた。
「余計なことを言うな」
「……承知いたしました」
「おやおや。旦那様が毎日どのように過ごされていたのか、姫様にはぜひ詳しくお伝えしたいと思っておりましたのに」
「ユストクス、其方もだ」
「まだ何も申し上げておりませんよ?」
「其方が口を開けば余計なことしか言わぬ」
ずいぶんな言われようである。
けれど、ユストクスは気を悪くした様子もなく、むしろ楽しそうにフェルディナンドとローゼマインを見比べた。
「では、転移陣のあるこの部屋を一時たりとも無人にしてはならぬと命じられたことも、定期的に魔力の痕跡を確認なさっていたことも、姫様がお戻りになった際に必要であろう薬や衣装を――」
「黙れ」
「それに、帰還の知らせを受ければすぐに駆けつけられるよう、執務室までこちらへ移されて――」
「ユストクス」
今度の声には、紛れもない殺気が含まれていた。
ローゼマインは目を瞬き、隣に立つフェルディナンドを見上げた。
「……ずっと、待っていてくださったのですか?」
「其方がいつ戻るかわからなかった以上、当然の備えだ」
「わたくしのために?」
「アレキサンドリアの礎を染めた領主が消息不明なのだ。領地の安定を考えれば、帰還に備えるのは当然であろう」
淡々とした答えである。
けれど、ローゼマインの腰を抱く腕はまだ解かれていなかった。
そのことに気づいたユストクスが何かを言いかけた瞬間、扉の外から声が響いた。
「アウブ・アレキサンドリアがご帰還なさったというのは、本当ですか!?」
聞き覚えのある声に、ローゼマインが顔を輝かせる。
「コルネリウス兄様!」
「お待ちください! 安全が確認されるまでは入室を――」
制止する声と、複数の足音が重なった。
次の瞬間、勢いよく扉が開く。
先頭に立っていたコルネリウスは室内を見回し、転移陣の前に立つローゼマインを見つけた。
大きく見開かれた目が、彼女の頭から足先までを何度も往復する。
「ローゼマイン様……?」
「はい。ただいま戻りました」
笑顔で答えた途端、コルネリウスは大きく息を吐いた。
全身から力が抜けたように見えたのは、ほんの一瞬だけだった。すぐさま護衛騎士の顔に戻り、足早に近づいてくる。
「お怪我はございませんか? 痛むところは? 魔力に異常は? 時の女神から無理難題を押しつけられたり、危険な場所へ放り出されたりはしていませんね?」
「コルネリウス兄様、落ち着いてください。わたくしはこのとおり元気です」
「見ただけではわかりません。ローゼマイン様は、ご自分の不調を隠して突然倒れることがあるでしょう」
「突然倒れるつもりなど、一度もありません」
「つもりの話はしておりません!」
兄の叱責に、ローゼマインはわずかに肩をすくめた。
その後ろから、レオノーレが静かに進み出る。いつもどおり落ち着いた表情をしていたが、目元がわずかに濡れていた。
「ご無事のお帰り、心よりお待ちしておりました」
「レオノーレ……」
「お顔を拝見できて、本当に安堵いたしました」
深く礼をする声が震えている。
ローゼマインが何か言うより早く、その脇を赤い影が駆け抜けた。
「ローゼマイン様!」
「クラリッサ!?」
クラリッサは勢いのままローゼマインの前へ跪き、両手を胸の前で組んだ。
「女神の御力によって時を越え、世界の危機を退け、再び我らのもとへお戻りくださるとは! まさにメスティオノーラの化身にふさわしき奇跡でございます!」
「お帰りになった瞬間にそれだけの言葉が出てくるのは、ある意味すごいですね」
「クラリッサ、わたくしが先です」
ハルトムートが一歩進み出た。
笑みを浮かべてはいるが、その橙色の瞳には、普段とは異なる強い光が宿っている。
「主の帰還を祝うための儀式について、すでにいくつか準備がございます。まずは領民を集め、神殿にて大規模な祝福を――」
「却下だ」
フェルディナンドが即座に切り捨てた。
「なぜですか!? ローゼマイン様が時の女神の御力によってご帰還なさったのですよ!」
「帰還したばかりの者を衆目に晒し、さらに儀式を行わせる愚か者がどこにいる」
「ですが、ローゼマイン様のお姿を一目拝したいと願う領民は――」
「診察と休養が先だ。異論は認めぬ」
ハルトムートが不満そうに口を閉ざす。
その言葉に、コルネリウスとレオノーレが強く頷いた。
「フェルディナンド様のおっしゃるとおりです。まずは診察を」
「食事も必要です。ローゼマイン様がどれほどの期間、どのように過ごされていたのかも確認しなければなりません」
「わ、わかりましたから、一度に話さないでくださいませ」
次々と投げかけられる言葉に、ローゼマインが困ったように周囲を見回す。
けれど、その頬は緩んでいた。
皆が変わらずここにいる。
皆が自分を待っていてくれた。
その事実を確かめるように、一人ひとりへ視線を向けたローゼマインが、ふと扉のそばで目を止めた。
側近たちの後ろに、小さな姿があった。
「レティーツィア?」
名を呼ばれたレティーツィアは、びくりと肩を震わせた。
皆が道を空ける。
薄い金色の髪をきちんと結い上げ、領主候補生にふさわしい衣装をまとったレティーツィアは、ゆっくりとローゼマインの前まで歩いてきた。
姿勢は美しく、表情も整えられている。
けれど、胸の前で重ねられた指先は、強く握り締められていた。
「アウブ・アレキサンドリア。ご無事のご帰還を、心よりお喜び申し上げます」
完璧な挨拶だった。
その場にいる誰からも咎められない、領主候補生として申し分のない言葉。
けれど、礼を終えて顔を上げたレティーツィアの瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
「レティーツィア……」
「わたくしは、信じておりました」
震える声で、レティーツィアは続ける。
「ローゼマイン様は、必ずお戻りになると。皆が不安に思っている時こそ、わたくしまで取り乱してはならないと思って……」
一粒の涙が、頬を伝った。
慌てて拭おうとした手を、ローゼマインが取る。
「よく頑張りましたね、レティーツィア」
「ですが……」
「皆の前で、しっかりしていようとしてくれたのでしょう?」
ローゼマインはレティーツィアの両手を包み込み、少し屈んでその顔を覗き込んだ。
「もう大丈夫です。わたくしは戻ってきました」
「……本当に?」
「ええ」
「もう、突然いなくなったりなさいませんか?」
答えようとしたローゼマインの背後から、フェルディナンドの冷静な声が落ちてきた。
「少なくとも、私の目の届くところから離すつもりはない」
「フェルディナンド様。わたくしの行動を勝手に決めないでくださいませ」
「其方に任せれば、また神々の都合に巻き込まれるであろう」
「今回の件は、わたくしのせいではありません!」
いつものように言い合う二人を見て、レティーツィアの瞳から、また涙がこぼれた。
けれど今度は、泣きながら笑っている。
「……本当に、ローゼマイン様です」
その小さな呟きを聞いたローゼマインは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、貴族らしい作法など忘れたように、レティーツィアをそっと抱き締める。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「ローゼマイン様……!」
張り詰めていたものが切れたのだろう。
レティーツィアはローゼマインの胸元へ顔を埋め、声を押し殺して泣き始めた。
ローゼマインはその背中を撫で続ける。
周囲では、レオノーレが涙を拭い、コルネリウスが顔を背け、ハルトムートとクラリッサが「尊い光景です」と囁き合っていた。
ユストクスだけが、少し離れた場所に立つフェルディナンドへ視線を向ける。
「旦那様。姫様を独占できるのは、もう少し先になりそうでございますね」
フェルディナンドは、レティーツィアを抱き締めるローゼマインを見つめたまま答えた。
「構わぬ」
「おや。ずいぶんと寛大でいらっしゃる」
「待つことには慣れた」
平坦な声だった。
だが、ユストクスはほんの少し目を細めた。
「……左様でございますか」
その返事に含まれたものを、フェルディナンドは追及しなかった。
ただ、もう二度と見失わないように、帰ってきた者の姿をじっと見つめ続けていた。
