卒業の日に手を取る人

フェルマイの卒業式エスコートのSS

エーレンフェストの養女として入学した少女が、アウブ・アレキサンドリアとして卒業し、フェルディナンドに手を取られる日


卒業式の朝。

アレキサンドリアの寮は、日の出前から慌ただしかった。

「ローゼマイン様、どうか動かないでくださいませ」

「先ほどから、わたくしはほとんど動いていませんよ」

「その状態で三度も本へ手を伸ばしていらっしゃいます」

リーゼレータに指摘され、ローゼマインは目の前に置かれた本からそっと視線を逸らした。

本日は卒業式である。

領主候補生として貴族院へ入学し、数え切れないほどの騒動を起こし、ついには領地まで得たローゼマインが、学生として過ごす最後の日だった。

鏡の前には、卒業式用の衣装をまとったローゼマインが座っている。

アレキサンドリアの色を基調とした衣装には、細い金糸でグルトリスハイトと波が描かれていた。幾重にも重ねられた布は、動くたびに水面のような光沢を帯びる。

髪には、トゥーリがこの日のために仕立てた髪飾りが挿されていた。

故郷であるエーレンフェストを思わせる淡い色の花と、アレキサンドリアを象徴する色の花が、ひとつの枝から咲いている。

「とてもよくお似合いです」

リーゼレータは満足そうに頷いた。

「トゥーリが作ってくれたものですもの。似合わないはずがありません」

「衣装も髪飾りも、すべてよくお似合いです。……フェルディナンド様がどのようなお顔をなさるのか、楽しみでございますね」

「フェルディナンド様ならば、装飾が多すぎるとか、歩きにくそうだとか、改善点を指摘なさると思います」

そう答えた時、扉を叩く音が響いた。

側仕えが応対し、来訪者の名を告げる。

「フェルディナンド様がお迎えにいらっしゃいました」

ローゼマインが立ち上がる。

扉が開き、正装に身を包んだフェルディナンドが入ってきた。

いつも以上に隙なく整えられた衣装には、ローゼマインの装いと同じ色が使われている。肩にはアレキサンドリアの紋章が輝き、婚約者として彼女の隣へ立つことを、誰の目にもわかる形で示していた。

室内へ足を踏み入れたフェルディナンドは、鏡の前に立つローゼマインを見て動きを止めた。

ほんの一瞬だった。

けれど、ローゼマインは見逃さなかった。

「フェルディナンド様?」

呼びかけると、彼はいつもの無表情に戻って近づいてきた。

上から下まで検分するように視線を動かす。

「……悪くない」

「本日のために、皆がずいぶんと準備をしてくれたのですよ。それだけですか?」

「卒業式へ出席するにふさわしい装いだと言っている」

「もう少し褒めてくださってもよいと思います」

「其方が増長するような言葉を、なぜ私が口にしなければならぬ?」

不満を込めて見上げると、フェルディナンドの指が、ローゼマインの髪飾りへ伸びた。

触れる直前で一度止まり、花の向きをわずかに整える。

「よく似合っている」

あまりにも小さな声だった。

聞き返す間もなく、フェルディナンドは手を下ろす。

「時間だ。行くぞ」

「今、何とおっしゃいました?」

「時間だと言った」

「その前です」

「聞こえなかったのであれば、其方には必要のない言葉だ」

「もう一度言ってくださいませ!」

「断る」

さっさと歩き始めるフェルディナンドを追い、ローゼマインは頬を膨らませた。

背後では、リーゼレータをはじめとした側仕えたちが、そっと笑みを交わしていた。

大広間へ続く廊下には、卒業生とその家族が集まり始めていた。

フェルディナンドに伴われてローゼマインが姿を現すと、周囲の視線が一斉に二人へ向けられる。

アウブ・アレキサンドリアと、その婚約者。

領地の礎を染めた若き領主と、彼女の隣に立つ稀代の魔術具研究者。

神々の騒動を経てなお結びつきを強めた二人の姿を見ようと、誰もが密かに注目している。

「フェルディナンド様。皆がこちらを見ています」

「見ることしかできぬ者など、放っておけ」

「卒業式で何か失敗すれば、アレキサンドリア全体が笑われてしまいます」

「其方はこれまで、周囲の評価を気にして行動していたのか?」

「……いいえ」

「ならば、今さら無用な心配をするな」

そう言って、フェルディナンドが足を止める。

廊下の先に、エーレンフェストの一行が見えた。

領主の正装をまとったジルヴェスターと、その隣に立つフロレンツィア。

少し離れたところには、同じく本日卒業を迎えるヴィルフリートがいる。

ジルヴェスターはローゼマインを見つけると、大きく目を見開いた。

それから、眩しいものを見るように目を細める。

「……ずいぶんと立派になったな」

公の場であることを意識した、領主らしい声だった。

けれど、その表情には、かつて養女を迎え入れた父親の色が滲んでいた。

ローゼマインはフェルディナンドの手を離し、アウブ同士の礼を取る。

「アウブ・エーレンフェスト。本日はお越しいただき、ありがとうございます」

「ヴィルフリートの卒業式だからな。領主として出席するのは当然だ」

「そうでした。わたくしの卒業式を見にいらしたわけではありませんものね」

思わずそう口にすると、ジルヴェスターは少しだけ眉を下げた。

「……息子と娘の卒業式だ。父親が見に来るのは、もっと当然だろう」

ローゼマインが目を瞬く。

すでに養女としての関係は終わり、互いに領主として向き合う立場になった。

それでもジルヴェスターは、ごく自然に娘と呼んだ。

胸の奥が熱くなり、目元が潤む。

「式の前に泣くな」

フェルディナンドから差し出された布を、ローゼマインは素直に受け取った。

「フェルディナンド。そこはもう少し優しく言ってやれ」

「泣いて化粧が崩れれば、整え直す側仕えの負担が増える」

「お前は本当に変わらないな」

「其方に言われたくない」

睨み合う兄弟の姿に、フロレンツィアが口元を押さえて笑う。

「卒業おめでとうございます、ローゼマイン。今日という日を迎えられたことを、心から嬉しく思います」

「フロレンツィア様……ありがとうございます」

「とても美しいですよ。フェルディナンド様が一瞬、言葉を失われるほどに」

ローゼマインは勢いよく彼を振り返った。

「やはり、先ほど黙っていらしたのは、わたくしの衣装をご覧になったからですか?」

「違う。リーゼレータの仕事に不備がないか確認していただけだ」

「其方、まだそんな言い訳をしているのか?」

ジルヴェスターが呆れたように言う。

「義兄上は黙ってください」

「卒業式くらい、素直に褒めてやればよいではないか」

「私はすでに伝えた」

「“悪くない”は褒め言葉に数えません!」

ローゼマインが抗議すると、ヴィルフリートが小さく噴き出した。

皆の視線が集まり、ヴィルフリートは少し気まずそうに咳払いをする。

「すまない。二人とも、以前と変わらないと思ってな」

「わたくしはずいぶん成長しましたよ」

「見た目は確かにそうだな」

ヴィルフリートはローゼマインをまっすぐに見た。

その瞳には、かつての婚約者へ向けた未練も、張り合うような強さもない。

ただ、共に育った相手の門出を喜ぶ、穏やかな光があった。

「卒業おめでとう、ローゼマイン」

「ヴィルフリート兄様も、おめでとうございます」

「叔父上がエスコートするのであれば、私から心配することは何もなさそうだ」

「何を言う。其方の頃より、私の方がよほど完璧に務めるに決まっている」

「そうでしょうね」

あっさり認められ、フェルディナンドがわずかに目を細める。

ヴィルフリートはそれに気づかないふりをして、ローゼマインへ笑いかけた。

「よい卒業式にしよう」

「ええ」

返事をしたところで、卒業生の集合を告げる鐘が鳴った。

廊下に並んでいた者たちが、それぞれの位置へ動き始める。

フェルディナンドはローゼマインの前へ立つと、片手を差し出した。

卒業式の会場へ導く、正式なエスコート。

その手を見た途端、ローゼマインの胸が大きく鳴った。

貴族院へ入学した時には、想像すらしていなかった。

自分が領主として卒業の日を迎えることも。

フェルディナンドが婚約者として迎えに来ることも。

彼の手を取り、共に未来へ進むことも。

「どうした?」

差し出された手を見つめたまま動かないローゼマインに、フェルディナンドが問う。

「……少し、緊張しているようです」

「君にも緊張という感情があったのだな」

「失礼ですね」

「何を恐れる必要がある? これまで君が起こした騒動に比べれば、卒業式など予定どおり歩くだけの簡単な儀式だ」

「その言い方では、少しも励まされません」

「ならば、これでよいか」

フェルディナンドは声を落とした。

「私が隣にいる。ローゼマインは前だけを見ていればよい」

ローゼマインが顔を上げる。

薄い金色の瞳が、まっすぐに自分を見つめていた。

そこに揶揄も、呆れもない。

当然のことを告げるような静かな確信だけがある。

「……はい」

ローゼマインは、差し出された手へ自分の手を重ねた。

フェルディナンドの指が、逃がさないようにしっかりと閉じられる。

二人が並んで歩き始めると、大広間へ続く扉が開いた。

眩しい光と、多くの人々の視線が差し込んでくる。

背筋を伸ばしたローゼマインは、フェルディナンドの導きに合わせて一歩を踏み出した。

その背中を、ジルヴェスターは無言で見送る。

かつて、領地を守るために養女へ迎えた少女。

突拍子もない言動で周囲を振り回し、いくつもの奇跡を起こし、誰よりも大切なものを守ろうとした娘。

その娘が今、自ら選んだ領地の色をまとい、自ら選んだ相手の手を取って歩いていく。

「……あんな顔もできるんだな、」

ジルヴェスターが呟く。

フロレンツィアが隣で首を傾げた。

「ローゼマインのことでございますか?」

「いや、フェルディナンドだ」

ローゼマインは前を向いているため、気づいていない。

だが、彼女へ視線を向けるフェルディナンドの目元は、普段よりも明らかに柔らかかった。

守るべき者を見る目とも、導くべき者を見る目とも違う。

自分の隣に立つ唯一の人を、誇らしく見つめる顔だった。

「心配する必要は、なかったようですね」

フロレンツィアが微笑む。

「……そうだな」

ジルヴェスターは、ほんの少しだけ鼻を啜った。

「父上、泣いていらっしゃるのですか?」

ヴィルフリートに指摘され、慌てて顔を背ける。

「泣いてなどいない。少し眩しかっただけだ」

「室内ですよ」

「うるさい。今日くらい余計なことを言うな」

前方では、何も知らないローゼマインがフェルディナンドを見上げていた。

「フェルディナンド様。手に力を込めすぎではありませんか?」

「君が転ばぬようにしている」

「わたくしは普通に歩けます」

「信用できぬな」

「先ほど、前だけを見ていればよいとおっしゃったではありませんか」

「だからこそ、私が支えているのだ」

言い合いながらも、つないだ手は離れない。

卒業生を迎える音楽が流れ始める。

二人は揃って前を向いた。

新しい領地へ。

共に築く図書館都市へ。

これから先、幾度となく並んで歩く未来へ向かって。

フェルディナンドに手を取られ、ローゼマインは学生としての最後の一歩を踏み出した。


そしてフェル様、式の間中完璧にエスコートするのですが、卒業生の待機場所へローゼマインを送り届ける直前、誰にも聞こえない声で、

「今日の其方は、誰よりも美しい」

とようやく言います。
マインちゃんだけ真っ赤なまま式へ出ることになります