洗礼前の子どもは、公の場へ出ることがない。
領主一族の御子であっても、限られた養育者と家族に囲まれて過ごし、洗礼式を迎えるまでは正式な社交も行わない。それが貴族の常識である。
けれど、アウブ・アレキサンドリアの私室では、その常識が少しばかり緩くなることがあった。
「母様、つぎはこちらを読んでくださいませ」
「先ほどの本はもうよいのですか?」
「三回、読みました」
幼い姫君は、絵本を抱えながらローゼマインの膝へ近づいた。
夜空を思わせる濃紺の髪と、フェルディナンドによく似た淡い金の瞳を持つ少女である。
本を好むところはローゼマインに、周囲をじっと観察するところはフェルディナンドに似ていた。
「では、こちらへいらっしゃい」
ローゼマインが腕を広げると、姫君は素直に近づいた。けれど、その膝へ上がる直前で足を止める。
視線の先には、護衛騎士として壁際に控えているコルネリウスがいた。
「コルネリウス」
突然名前を呼ばれ、コルネリウスは目を瞬いた。
「はい、姫様」
「こちらへ」
一体何を命じられるのかと緊張しながら、コルネリウスが数歩前へ進み、姫君の前へ跪く。
姫君はその様子をじっと見つめた後、両腕を差し出した。
「抱っこしてくださいませ」
「……私が、でございますか?」
「はい」
コルネリウスは助けを求めるようにローゼマインを見た。
「姫様がお願いしているのですから、抱いてあげてくださいませ」
「しかし、私は護衛騎士です。幼い姫様を抱くことには慣れておりません」
「魔獣を相手にするより簡単ですよ」
「比較の対象がおかしいです、ローゼマイン様」
「コルネリウス、早く」
小さな腕がもう一度伸びてくる。
護衛騎士として数々の危機を乗り越えてきたコルネリウスが、これほど緊張した顔を見せるのは珍しい。
恐る恐る姫君を抱き上げると、彼女は満足そうに腕の中へ収まった。
「たかいですね」
「申し訳ございません。もう少し低くいたしましょうか?」
「このままでよいです」
姫君はコルネリウスの肩越しに部屋を見回した後、胸元に輝く装飾品へ触れた。
「コルネリウスは、母様を守る騎士なのですね?」
「はい。そのとおりでございます」
「では、わたくしも守ってくださいますか?」
コルネリウスは一瞬、言葉に詰まった。
それから、姫君を抱く腕へわずかに力を込める。
「もちろんでございます。姫様に危険が及ばぬよう、必ずお守りいたします」
「よかったです」
姫君は嬉しそうに笑い、コルネリウスの肩へ頬を寄せた。
その無防備な仕草に、コルネリウスの表情が完全に固まる。
「コルネリウス兄様。息をしてくださいませ」
「しております」
「顔が赤いですよ」
「気のせいです」
ローゼマインが楽しそうに笑う一方、少し離れたところにいたエックハルトは、実に複雑そうな顔をしていた。
その視線に気づいた姫君が、コルネリウスの腕の中から手を伸ばす。
「つぎは、エックハルト」
「私でございますか?」
「はい。父様を守る騎士なのでしょう?」
「左様でございます」
「では、抱っこしてくださいませ」
エックハルトはフェルディナンドへ視線を向けた。
執務机で書類を確認していたフェルディナンドは、顔を上げることなく答える。
「落とさぬのであれば、好きにせよ」
「落とすはずがございません」
即座に答えたエックハルトが、コルネリウスから姫君を受け取る。
その動きには迷いがなかった。
「あら。エックハルト兄様は慣れていますね」
「フェルディナンド様のお子です。万一などあってはなりませんので、事前に乳母から正しい抱き方を教わりました」
「いつの間に……」
姫君はエックハルトの腕の中でも居心地よさそうに収まり、彼の顔を見上げた。
「エックハルトは、父様が好きなのですか?」
「何より敬愛しております」
「わたくしも父様が好きです」
「それは何よりでございます」
「いっしょですね」
無邪気に微笑まれたエックハルトが沈黙する。
普段ほとんど表情を変えない彼の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それを見逃さなかったユストクスが、楽しそうに口元を上げる。
「エックハルトにも、そのようなお顔ができたのですね」
「黙れ、ユストクス」
「エックハルト。姫様の前でそのような声を出すな」
フェルディナンドから注意され、エックハルトはすぐに姿勢を正した。
「申し訳ございません」
「父様、エックハルトを叱らないでくださいませ」
「其方を抱いたまま余所見をしたから注意しただけだ」
姫君は少し考え込んだ後、エックハルトの胸へ手を添えた。
「では、わたくしを落とさないように、しっかり抱いてくださいませ」
「かしこまりました」
エックハルトの返事には、騎士の誓いにも似た重みがあった。
◇
姫君の興味は、すぐに別の側近へ移った。
「ハルトムート」
「はい、姫様」
名を呼ばれる前から待ち構えていたハルトムートが、恭しく跪く。
「この本を読んでくださいませ」
姫君が差し出したのは、神々の物語を描いた子ども向けの絵本だった。
ハルトムートは感激した様子で本を受け取る。
「喜んで拝読いたします。こちらは、始まりの庭において闇の神と光の女神が――」
「ハルトムート」
「はい」
「ながいです」
まだ本文を開いてすらいない。
部屋の中へ小さな笑いが広がった。
「絵本に書かれているところだけ読んでくださいませ」
「しかし、神々の御心を正しく理解していただくためには、前提となる神話の説明が必要です。とりわけ姫様は、女神の化身たるローゼマイン様よりお生まれになった尊き御方であり――」
「フェルディナンド様」
ローゼマインが困ったように夫を呼ぶ。
「ハルトムート。今後、姫へ余計な教義を吹き込むことを禁ずる」
「余計な教義ではございません」
「禁ずる」
「……かしこまりました」
肩を落としたハルトムートの横から、クラリッサが顔を覗かせた。
「姫様、わたくしが読みましょうか?」
「クラリッサは、速すぎます」
「では、ゆっくりお読みします」
「声も大きいです」
「気をつけます」
「途中で母様を褒め始めないでくださいませ」
「……努力いたします」
「約束できないのですか?」
姫君が首を傾げると、クラリッサは胸を押さえて言葉を失った。
「ローゼマイン様。姫様はなんと聡明なのでしょう!」
「ええ。二人の扱い方をすでに理解しているようです」
「母様が、ハルトムートとクラリッサには先に約束させるように、とおっしゃいました」
側近たちの視線が一斉にローゼマインへ向かう。
「ローゼマイン」
「必要な教育ですよ、フェルディナンド様」
「否定はせぬ」
◇
「ユストクスは、何を持っているのですか?」
最後に目をつけられたユストクスは、腰に提げた袋を姫君から隠すように一歩下がった。
「姫様がお使いになるには、少々早い物ばかりでございます」
「珍しい物ですか?」
「珍しい物もございます」
姫君の淡い金の瞳が、期待に輝いた。
その表情は、新しい本を前にしたローゼマインによく似ている。
「見せてくださいませ」
「なりません」
答えたのはユストクスではなく、フェルディナンドだった。
「ユストクスの持ち物には、用途の分からぬ物も多い。勝手に触れるな」
「父様は触ってもよいのですか?」
「私には判別できる」
「では、父様と一緒ならば見てもよいですか?」
フェルディナンドの指が止まった。
駄目だと言われたから諦めるのではなく、許可を得られる条件を探す。幼いながらも、実にローゼマインらしい。
「……危険のない物だけだ」
「ありがとう存じます、父様」
姫君は満面の笑みを浮かべ、フェルディナンドのもとへ歩いていく。
そして、当然のように両腕を伸ばした。
「父様も、抱っこしてくださいませ」
フェルディナンドは小さく息を吐き、慣れた手つきで姫君を抱き上げた。
先ほどまで側近たちを振り回していた姫君は、父親の胸へ収まると、急におとなしくなる。
「眠いのか?」
「少しだけです」
「其方の『少し』も信用できぬな」
「母様と同じですか?」
「実に困ったことに、よく似ている」
そう言いながらも、フェルディナンドの声は穏やかだった。
姫君は彼の襟元を小さな手でつかみ、側近たちへ顔を向ける。
「みんな、父様と母様を守ってくださる、大切な方なのですね」
「そうですよ」
ローゼマインが微笑んで頷く。
「では、わたくしも、みんなを大切にいたします」
その言葉に、部屋が静まり返った。
コルネリウスは感極まったように目を伏せ、エックハルトは騎士らしく姿勢を正す。クラリッサは涙を拭いながら書板へ手を伸ばし、ハルトムートは祈りを捧げようとしてフェルディナンドに睨まれた。
ユストクスだけが、少し困ったように笑う。
「これは、洗礼式の後が思いやられますね」
「何がですか?」
「姫様へお仕えしたいと望む者が、あまりに増えすぎるのではないかと存じます」
「その選別は私が行う」
フェルディナンドが即答する。
「父様が決めるのですか?」
「無論だ。其方の側へ置く者は、能力も忠誠も十分に見極めねばならぬ」
「わたくしも、自分で選びたいです」
「まずは人を見る目を養え」
「父様が教えてくださいますか?」
「ああ」
「では、約束です」
姫君は満足そうに頷くと、フェルディナンドの胸へ頬を寄せた。
間もなく、規則正しい寝息が聞こえ始める。
フェルディナンドは眠った娘を起こさぬよう、声を抑えた。
「今日のことを外で話すな。洗礼前の姫に関する情報は、可能な限り伏せる」
側近たちは揃って了承を示した。
ただし、クラリッサの書板にはすでに、
――姫様、初めて側近一同を「大切な方」とお認めになる。
と、大きく記されていた。
それを見つけたフェルディナンドが眉間へ皺を刻み、ローゼマインが声を立てないよう必死に笑いを堪える。
そんな両親の腕の中で、幼い姫君だけが何も知らず、幸せそうに眠っていた。
