帰る場所の、その先

 鏡の中には、見慣れない女性がいた。

 丁寧に結い上げられた夜空のような髪。成人女性の証として露わになった項には、淡い色の魔石を連ねた首飾りが輝いている。

 今日のためにトゥーリが作ってくれた髪飾りは、アレキサンドリアの紋章に使われている色を基調としながら、中央には懐かしい青い花が添えられていた。

「よくお似合いでございます、ローゼマイン様」

 グレーティアの声に、わたしは鏡の中で微笑んだ。

「ありがとう。少し落ち着かないけれど……」

「お美しいですよ、姫様」

 リーゼレータが嬉しそうに目を細める。その後ろではクラリッサが感極まった様子で何かを語り始めようとし、ハルトムートに止められていた。

 今日はわたしの成人式だ。

 貴族として二度目の洗礼式を受けた時とは違う。今度こそ、年齢を偽る必要も、出自を隠すための新しい設定を作る必要もない。

 領地を治めるアウブ・アレキサンドリアとして、そして一人の成人女性として、皆の前に立つ日である。

「ローゼマイン、支度は終わったのか?」

 扉の向こうから聞こえた声に、側仕え達が一斉に姿勢を正した。

「フェルディナンド様がお迎えにいらっしゃいました」

 扉が開き、正装したフェルディナンドが入ってくる。

 いつもと同じ無表情に見えたけれど、わたしの姿を目にした瞬間、ほんの少しだけ足が止まった。

「お待たせいたしました」

「……いや」

 フェルディナンドの視線が、結い上げた髪から髪飾りへ、そして成人用に仕立てられた衣装へとゆっくり移っていく。

「おかしいところがありますか?」

「そのようなことは言っていない」

「では、なぜ黙っているのです?」

「君は少し黙ることを覚えなさい」

 いつもの言葉に、わたしは頬を膨らませた。

 けれど差し出された手を取ると、フェルディナンドは誰にも聞こえないほど小さな声で付け加えた。

「……よく似合っている」

「もう一度お願いします」

「聞こえていたならば、それでよかろう」

「このような貴重なお言葉は、聞き間違いであっては困ります」

「早く行くぞ。皆を待たせるな」

 急かすような口調なのに、握られた手はいつもより少しだけ強い。

 大広間へ向かう廊下を並んで歩きながら、わたしは何度もフェルディナンドを見上げた。

「先程から何だ?」

「フェルディナンド様は、わたくしが成人するのを待ち望んでいたのでしょう?」

「君が余計なところへ嫁がされる危険がなくなるという意味ではな」

「素直ではありませんね」

「成人した途端にずいぶん偉そうになったものだ」

 呆れたようなため息が落ちてくる。

 それでも、わたしの手が離されることはなかった。

    *

 成人式から季節が巡り、星結びの日を迎えた。

 領主一族の婚姻であるため、儀式は朝から晩まで続いた。

 神々への祈り。貴族達へのお披露目。祝いの言葉と音楽。次々に差し出される祝福と贈り物。

 すべてを終えて自室へ戻った頃には、わたしはすっかり疲れ切っていた。

「もう動けません……」

「寝台へ倒れ込まないでくださいませ。まだ髪も衣装もそのままです」

 リーゼレータとグレーティアに叱られながら着替えを済ませ、髪を解いてもらう。

 星結びの衣装から柔らかな夜着に替わると、急に心許ない気分になった。

「では、わたくし達はこれで失礼いたします」

「え?」

 側仕え達が揃って礼をする。

「待って。皆、どこへ行くのです?」

「今夜はフェルディナンド様がいらっしゃいますから」

 当然のことを言うような顔をされ、わたしは瞬いた。

 扉が閉まり、広い部屋に一人残される。

 星結びを終えたのだから、フェルディナンドが来る。それは理解していたつもりだった。

 けれど、理解することと、実際に二人きりで夜を過ごすことは違う。

「ど、どうしましょう……」

「今になって何を慌てている?」

「ひゃっ!」

 奥の扉から現れたフェルディナンドに、わたしは肩を跳ねさせた。

 彼もすでに正装を解き、寛いだ室内着になっている。いつもきっちりと撫でつけられている髪も少し緩んでいて、見慣れない姿に心臓が落ち着かない。

「フェルディナンド様は、いつからそこにいたのですか?」

「今来たところだ。君の情けない独り言を聞いた程度だな」

「聞かなかったことにしてくださいませ」

「それは難しい」

 フェルディナンドは面白がるように口元を緩め、わたしの前まで歩いてきた。

 反射的に一歩下がると、眉間に皺が寄る。

「なぜ逃げる?」

「逃げているわけではありません。ただ、少し近いと思っただけです」

「今までは君の方から抱きついてきたであろう」

「あの頃とは状況が違います!」

「何が違う?」

「今夜から夫婦なのですよ!」

 わたしが訴えると、フェルディナンドは一度目を伏せた。

「だからこそ、逃げられるのは困る」

 低くなった声に、胸の奥がきゅっと縮む。

 フェルディナンドはわたしの頬へ手を伸ばしかけ、けれど触れる寸前で止めた。

「嫌ならばそう言いなさい」

 思いがけない言葉だった。

 命令され、からかわれ、問答無用で寝台へ運ばれるものだと思っていたのに。

「……嫌ではありません。ただ、今までとは違って見えるので、困っているのです」

「それはこちらも同じだ」

「フェルディナンド様も?」

「当然であろう。私の知る君は、隙あらば図書館へ逃げ、興奮すれば倒れ、抱き上げても何の問題もないほど小さかった」

「今でも図書館へは逃げますよ」

「そこは成長しなかったようだな」

 呆れた声に、少しだけ緊張が解けた。

 わたしが小さく笑うと、フェルディナンドの指がようやく頬に触れた。

 確かめるような、ひどく慎重な触れ方だった。

「成人式の日、わたくしを見て黙り込んだのは、やはり驚いたからですか?」

「……君は本当に、答えにくいことばかり尋ねる」

「今夜は夫婦なのですから、本音を聞かせてください」

「都合の良い時だけ夫婦という言葉を使うな」

 そう言いながらも、フェルディナンドは視線を逸らさなかった。

「美しいと思った。私の知る幼い君と、目の前にいる成人した君が、すぐには結びつかなかっただけだ」

 あまりに真っ直ぐな答えに、今度はわたしが黙り込む。

「……もう一度お願いします」

「断る」

「成人式の日と同じではありませんか」

「聞こえていたならば十分だ」

 わたしが不満を訴えようとすると、フェルディナンドの顔が近づいた。

 額が触れそうな距離で止まり、金色の瞳がわたしを映す。

「君は、これからも私と共にいることを望むのだな?」

「もちろんです。そのためにアーレンスバッハの礎まで奪ったのですよ」

「君の行動は常に規模がおかしい」

「フェルディナンド様に言われたくありません」

 どちらからともなく笑い、額が触れた。

「わたくしはフェルディナンド様と家族になりたかったのです」

「あぁ」

「図書館都市を一緒に作って、家族に会えて、皆が帰ってくる場所を守りたかったのです」

「あぁ」

「そして……できれば、フェルディナンド様にも、わたくしと同じくらい幸せになってほしいのです」

 頬に添えられた手が、わずかに震えた。

「君は相変わらず、私が最も欲しい言葉を無自覚に差し出すのだな」

「欲しかったのですか?」

「そうでなければ、ここまで来ていない」

 囁きと共に、唇が重なった。

 触れるだけの短い口づけだったけれど、離れた後も息の仕方がわからない。

「顔が赤いぞ」

「フェルディナンド様のせいです!」

「熱でもあるのか?」

「この状況で主治医の顔をするのは卑怯です!」

「では、夫として確認しよう」

 再び近づいてくる顔を、今度は避けなかった。

 何度か優しく唇を重ねられ、気付けばフェルディナンドの胸元へ額を押しつけていた。

 背中へ回された腕は、以前と同じように温かい。

 けれど、もう以前と同じ抱擁ではなかった。

「フェルディナンド様」

「何だ?」

「明日、図書館へ行ってもよいですか?」

「却下する」

「なぜです!?」

「星結びの翌日にアウブが図書館へ駆け込めば、私がどのような夫だったと思われる?」

「また外聞ですか……」

「それだけではない」

 フェルディナンドはわたしを抱き上げ、そのまま寝台へ運んだ。

「明日は、私が君を独占する」

「図書館よりも長くですか?」

「君は少し黙りなさい」

 寝台へ下ろされ、髪を一房すくわれる。

 そこへ落とされた口づけは、婚約の魔石へ刻まれた言葉を思い出させた。

 領地ごと守ると言ってくれた人。
 わたしが家族に会える場所を作ってくれた人。
 そして今日から、同じ家へ帰る人。

「おやすみなさい、フェルディナンド様」

「この状況で眠るつもりか?」

「今日はとても疲れたので……」

「全く、最後まで君という者は……」

 深いため息とは裏腹に、額へ落ちてきた口づけは優しかった。

 灯りが消される。

 暗闇の中で探るように手を伸ばすと、すぐに大きな手が指を絡めてきた。

「フェルディナンド様」

「今度は何だ?」

「わたくし、今、とても幸せです」

 しばらく返事はなかった。

 けれど、繋がれた手に力が込められる。

「……私もだ、ローゼマイン」

 その答えを聞いたわたしは、安心して目を閉じた。

 これから何度季節が巡っても、この手を離すことはない。

 ここが、わたし達二人の帰る場所なのだから。