寝台へ入ってから、どれほどの時間が経っただろう。
フェルディナンドは隣に横たわるローゼマインへ、ちらりと視線を向けた。
彼女の手には、今夜も本がある。
寝台へ本を持ち込むことを許した覚えはない。だが、取り上げれば不満そうに頬を膨らませる。その顔を見たいがために取り上げているわけではないと自分へ言い聞かせながら、フェルディナンドは再び天井へ目を向けた。
頁をめくる、微かな音が響く。
また一枚。
さらに一枚。
「ローゼマイン」
「はい」
返事は即座に返ってきたが、彼女の目は本へ向いたままだ。
「もう遅い」
「わかっています。あと少しです」
「先ほども同じことを言っていたな」
「今度こそ本当にあと少しです」
フェルディナンドは眉間へ皺を刻んだ。
別に、彼女が読書をしていること自体が不満なのではない。本はローゼマインにとって何物にも代え難いものであり、奪うつもりなどなかった。
ただ、日中はアウブとして執務に追われ、夕食時にも明日の予定について話し合い、ようやく二人きりになったというのに。
彼女の視線は、先ほどから一度もこちらへ向いていない。
「……好きにしなさい」
「はい。そうします」
あまりに素直な返答に、胸の奥が面白くない音を立てた。
背を向けて目を閉じる。
眠ればよい。彼女が本を読み続けようと、私には関係がない。明日の体調管理に支障が出れば、その時に叱ればよいだけだ。
そう結論づけた直後、背後で本が閉じられた。
衣擦れの音と共に、寝台が小さく揺れる。
「フェルディナンド様」
「何だ」
「こちらを向いてください」
「本を読むのではなかったのか?」
「今はフェルディナンド様を見ています」
その言葉に、無視を続けることができなかった。
振り返ると、すぐ目の前に金色の瞳がある。ローゼマインは本を枕元へ置き、こちらへ体ごと向けていた。
「……何のつもりだ?」
「フェルディナンド様が拗ねていらっしゃるようなので」
「誰が拗ねていると言った?」
「言われていません。見ればわかります」
「君の観察眼ほど当てにならぬものはないな。私は単に眠ろうとしただけだ」
「では、もう一度本を読んでもよいですか?」
「駄目だ」
答えてから、しまったと思った。
ローゼマインの目が楽しげに細められる。
「やはり、わたくしに構ってほしかったのでしょう?」
「違う。就寝時間を守らせようとしただけだ」
「では、眠るまでこうしていてもよいですか?」
ローゼマインが少し身を寄せる。
柔らかな髪がフェルディナンドの腕へ触れた。さらに近づこうとする彼女の腰を、考えるより先に引き寄せていた。
すっぽりと腕の中へ収まったローゼマインが、胸元から顔を上げる。
「ふふっ」
「何だ」
「嬉しそうです」
「君には何が見えているのだ」
「わたくしを抱き締めて、安心しているフェルディナンド様です」
心臓を直接掴まれたような心地がした。
否定しようと口を開きかけたフェルディナンドの頬へ、ローゼマインの手が伸びる。
指先が輪郭をなぞり、眉間に触れた。
「皺が消えました」
「……もともと皺などない」
「ありましたよ。本を読んでいる間は、ずっと不機嫌そうでした」
「君が明日の予定を考えずに夜更かしをするからだ」
「それだけですか?」
「それ以外に何がある?」
ローゼマインは少し考えるように首を傾げた後、フェルディナンドの胸へ頬を寄せた。
「わたくしが本ばかり見て、フェルディナンド様を見なかったからではありませんか?」
核心を突かれ、答えに詰まる。
そんな些細なことで機嫌を損ねるなど、あまりに子供じみている。まして、彼女から本を取り上げて自分を優先させたいなど、口にできるはずがない。
黙り込んだフェルディナンドの胸元で、ローゼマインが小さく笑った。
「フェルディナンド様は、わたくしに何かを望む時ほど難しい顔をなさいますね」
「……君があまりにも鈍いからだ」
「それならば、言葉にしてくださいませ。わたくしには、貴族的な遠回しの表現より、直接言っていただいた方がよく伝わります」
「君に構ってほしいなどと、私が言うと思うか?」
「思いません」
即答だった。
「だから、わたくしから構うことにしました」
ローゼマインの腕が、フェルディナンドの背へ回る。
抱き締めるというには頼りない力だった。けれど、離れるつもりがないことだけは、痛いほど伝わってくる。
「今夜はフェルディナンド様を優先します」
「……本はよいのか?」
「明日も読めます。でも、今のフェルディナンド様を甘やかせるのは、今のわたくしだけでしょう?」
「甘やかされる必要などない」
「わたくしが甘やかしたいのです」
反論の言葉が出てこない。
ずっと、何かを欲しがることは弱みになると思っていた。
手を伸ばせば奪われる。大切にすれば壊される。必要だと知られれば、それを利用される。ならば初めから望まなければよい。何も欲しくない顔をしていれば、失わずに済む。
そのはずだった。
けれど腕の中の彼女は、フェルディナンドが望みを言葉にできないことまで知ったうえで、自ら留まることを選ぶ。
「フェルディナンド様」
「何だ」
「もっと抱き締めてもよいのですよ」
「……後悔するなよ」
腕へ力を込める。
細い体を自分の胸へ隙間なく引き寄せると、ローゼマインは苦情を言うどころか、満足そうに息を吐いた。
「これでよいですか?」
「まだ足りぬ」
「まあ」
「今夜は私を優先すると言ったのは君だろう」
「そうでした。では、どうぞ」
あまりにも無防備に微笑まれ、フェルディナンドは目を細めた。
「本当に、君は自分の発言の意味を理解しているのか?」
「理解しています。フェルディナンド様が、わたくしを手放したくないのでしょう?」
「……そうではない」
「違うのですか?」
腕を解く気配を見せると、フェルディナンドは反射的に抱き締める力を強めた。
ローゼマインがまた楽しげに笑う。
「手放せないではありませんか」
「君が試すような真似をするからだ」
「わたくしはどこにも行きませんよ」
「その言葉は聞いた」
「では、何度でも言います。フェルディナンド様が信じられるようになるまで、毎晩でも」
頬へ触れた手が、今度は髪を撫でる。
誰かに頭を撫でられるなど、本来ならば許せるはずがない。けれど、その手を払いのける気にはなれなかった。
「わたくしは、フェルディナンド様の家族です」
「ああ」
「妻で、懸想している相手です」
「……ああ」
「ですから、フェルディナンド様が寂しい時は、一番にわたくしを呼んでくださいませ」
「寂しいなどとは言っていない」
「はいはい。構ってほしいともおっしゃっていませんでしたね」
「ローゼマイン」
たしなめる声を出すと、彼女は笑いながら顔を上げた。
唇が届く距離にある。
フェルディナンドがその頬へ手を添えると、ローゼマインは逃げずに目を閉じた。
一度、触れる。
離れれば、彼女が目を開いてこちらを見た。
その瞳があまりにも幸福そうに細められたため、もう一度唇を重ねる。
今度は先ほどより長く。
抱く腕へ力を込めても、彼女は離れなかった。それどころか、フェルディナンドの夜着を掴み、自ら少しだけ距離を詰める。
やがて唇を離すと、ローゼマインは頬を赤くしながらも、満足そうに笑った。
「フェルディナンド様」
「何だ」
「わたくしも、もっと構ってほしいです」
フェルディナンドはしばらく彼女を見つめた後、口元へ小さな笑みを浮かべた。
「ならば、最初からそう言えばよい」
「フェルディナンド様にだけは言われたくありません」
「私は君ほど鈍くない。言われずとも理解している」
「わたくしだって、少しずつ理解できるようになっていますよ」
「ほう?」
「今のフェルディナンド様は、とても嬉しくて、わたくしを朝まで離したくないと思っています」
図星を指され、フェルディナンドは眉を寄せた。
「……余計なことだけは、よく理解できるようになったな」
「褒め言葉として受け取ります」
ローゼマインはそう言うと、自分から彼の胸へ収まり直した。
「おやすみなさい、フェルディナンド様」
「待ちなさい」
「何でしょう?」
「私を優先する時間は、もう終わりなのか?」
きょとんと目を瞬いた後、ローゼマインの顔へ満面の笑みが広がった。
「いいえ。朝までずっと、フェルディナンド様のものです」
その答えに満足して、フェルディナンドは再び彼女を腕の中へ閉じ込める。
本など、明日になればいくらでも読める。
けれど今夜、彼女の温もりも、甘い言葉も、眠りに落ちる寸前まで自分だけへ向けられている。
それを誰にも奪われないことを確かめながら、フェルディナンドはようやく目を閉じた。
