腕の中の居場所

「ローゼマイン。いい加減、本を閉じなさい」

 すぐ隣から落ちてきた低い声に、ローゼマインは頁から目を離さないまま答えた。

「あと少しです。ここで章が終わりますから」

「先ほども同じことを聞いた」

「先ほどとは違う章です」

 返事の代わりに、手元から本が消えた。

「あっ!」

 抗議する間もなく栞を挟まれ、枕元の卓へ置かれてしまう。手を伸ばそうとしたローゼマインの体を、フェルディナンドの腕が腰から引き戻した。

 背中が彼の胸へぴたりと収まる。

「夜更かしをして、明日の執務中に眠いなどと言い出すつもりか?」

「言いません。少しぼんやりするだけです」

「それを眠いと言うのだ」

 耳元で呆れた吐息が落ちる。けれど、腰に回された腕は離れるどころか、いっそう深くローゼマインを抱き込んだ。

「フェルディナンド様」

「何だ」

「これでは眠れません」

「……狭いか?」

 問いかける声が、わずかに硬くなった。

 腕を解こうとする気配を察して、ローゼマインは慌ててその手を両手で捕まえる。

「違います。近すぎて、心臓の音が気になるのです」

「君の心音も十分に騒がしい。お互い様だろう」

「わたくしのせいではありません。フェルディナンド様が急に引き寄せるからです」

「夫が妻を抱き寄せることの、どこが急なのだ?」

 あまりに平然と告げられて、ローゼマインは言葉に詰まった。

 このようなことを言えるようになったのは、いつからだろう。少なくともエーレンフェストにいた頃の彼ならば、眉間に深い皺を刻み、「くだらぬことを考えている暇があるならば手を動かせ」と一蹴していたはずだ。

 もっとも今も、明るい場所では大して変わらない。

 アウブとして無理をすれば叱られるし、執務を抜け出して図書館へ向かえば捕獲される。食事を忘れれば皿の前に座らされ、神事で魔力を使いすぎれば薬を飲まされる。

 ただ、二人きりになった時だけ。

 彼の手は、こうしてローゼマインがここにいることを確かめるように、なかなか離れなくなった。

「……フェルディナンド様は、わたくしが眠るまでこうしているのですか?」

「不満か?」

「不満ではありませんけれど、腕が痺れませんか?」

「君一人を支えた程度で痺れるほど軟弱ではない」

「では、暑くありませんか?」

「適温だ」

「苦しくは?」

「君は先ほどから、私に離れてほしいのか?」

 低くなった声に、ローゼマインは瞬いた。

 腰にある腕は緩んでいない。けれど、触れている指先だけが、ひどく静かになっていた。

 ローゼマインはその手を持ち上げ、指を絡める。

「いいえ。むしろ、もう少しこちらへ来てください」

「……これ以上か?」

「はい。わたくしは小さいので、まだ隙間があります」

「君は本当に……」

 深い溜息の後、体をそっと反転させられた。

 向かい合う形になった途端、金色の瞳と目が合う。

 寝台の中で見るフェルディナンドの顔は、いつもよりずっと近い。整った顔立ちも、伏せられた睫毛も、普段は隙なく結ばれている唇も、手を伸ばせば触れられる距離にある。

 ローゼマインが頬へ手を添えると、彼は一瞬だけ目を見開いた。

「何をしている?」

「近くに来てくださったので、触ってみようかと」

「珍しい素材を見つけたような言い方をするな」

「珍しいですよ。皆の前では触らせてくださらないでしょう?」

「当然だ」

「では、今はよいのですね?」

 返事はなかった。

 代わりに、頬へ触れていた手を取られる。そのまま指先へ、唇がそっと押し当てられた。

 あまりに自然な動作だったため、理解するまで少し時間がかかる。

「ふぇ、フェルディナンド様?」

「触れたいのだろう?」

「そうですけれど、今のは聞いていません!」

「わざわざ予告する必要があるのか?」

 いつもの冷静な声だった。

 けれど、絡めた指から伝わる脈は少しだけ速い。

 ローゼマインは嬉しくなって、彼の胸元へ額を寄せた。

「フェルディナンド様も、ドキドキしているのですね」

「気のせいだ」

「気のせいではありません。速いです」

「黙って眠りなさい」

 言葉は素っ気ないのに、頭を抱える腕は優しい。

 髪を撫でる指が何度も同じところを往復する。まるで大切なものが腕の中から消えてしまわないように、輪郭を確かめているようだった。

「……ローゼマイン」

「はい」

「明日の予定を覚えているか?」

「午前は会議で、午後は孤児院と工房の視察です。その後は図書館へ――」

「図書館は予定にない」

「今、加えました」

「却下だ」

「横暴です、フェルディナンド様」

「君を放置すれば、また夕食まで戻らぬだろう」

「迎えに来てくださればよいではありませんか」

 髪を撫でていた手が止まった。

 しばらく沈黙が続いた後、頭上から小さな声が落ちてくる。

「……迎えに行けば、君は戻ってくるのか?」

「もちろんです」

「本より私を優先して?」

「それは難しい質問ですね」

 腕に力がこもった。

「痛い、痛いです! 冗談です、フェルディナンド様!」

「君の冗談は質が悪い」

「では、迎えに来てくださったフェルディナンド様と一緒に、図書館で本を読みます。それならばどちらも優先できます」

「結局、本を読むのではないか」

「でも、隣にはフェルディナンド様がいますよ?」

 再び沈黙が降りた。

 やがて、額に柔らかな感触が触れる。

 一度だけではなかった。額からこめかみへ、そして閉じかけた瞼へ。確かめるような口づけが落ちてくるたび、ローゼマインの意識は心地よく霞んでいった。

「……ずるいです」

「何がだ?」

「眠くなってしまいました」

「結構。ようやく本を取り上げた甲斐があった」

「本がなくても、フェルディナンド様が気になって眠れません」

「ならば、慣れなさい」

 胸元へさらに引き寄せられる。

 耳を澄ませば、先ほどより穏やかになった鼓動が聞こえた。それでも、ローゼマインが少し身動きをするだけで、抱く腕はすぐに反応する。

「わたくしはどこにも行きませんよ」

 うとうとしながら呟くと、髪を撫でる手が止まった。

「……その言葉を、私はどれほど信用してよいのだろうな」

 あまりにも静かな声だった。

 ローゼマインは眠い目を開け、彼の夜着をきゅっと掴む。

「朝になっても、ここにいます」

「当然だ」

「明日の夜も、一緒に眠ります」

「当然だ」

「その次の日もです」

「……ああ」

「ですから、フェルディナンド様も、ずっとここにいてくださいね」

 返事の代わりに、顔を上向かされた。

 触れた唇は、ほんの短いものだった。それなのに離れた後も、フェルディナンドは額を合わせたまま、すぐには距離を取らない。

「君は、時折ひどく残酷なことを簡単に口にする」

「残酷ですか?」

「私がそれを、決して手放せなくなると知りもしないで」

 ローゼマインには、その言葉のすべては理解できなかった。

 ただ、彼の金色の瞳に宿る熱だけはわかった。

 だからもう一度、自分から唇を重ねる。

「手放さなくてよいのですよ」

 今度こそ、フェルディナンドの表情から余裕が消えた。

 けれどローゼマインは、それを最後まで見届けられなかった。強く、けれど壊れ物を扱うように抱き締められ、その胸へ顔を埋めたからだ。

「おやすみなさい、フェルディナンド様」

「……この状況で先に眠るのか、君は」

「安心したら、眠くなりました」

 呆れた吐息が髪を揺らす。

 それでも背中を撫でる手は、眠りを促すようにゆっくりと動き続けた。

「おやすみ、ローゼマイン」

 眠りに落ちる寸前、もう一度だけ額に口づけが触れる。

 朝になっても腕の中にいると確信できる夜だけは、フェルディナンドもまた、目を閉じることができた。