おかえりの順番

 ルッツが街を出てから、二十日が経った。

 隣街に新しくできた工房を確認し、紙の取引について話をまとめてくる。ベンノさんから聞いた予定では、戻るのは明日の夕方だ。

 だから、別に待っているわけではない。

 わたしは窓際の机に座り、次に印刷する本の原稿を確認しているだけだ。

「マイン、さっきから同じところばかり読んでない?」

 向かいで糸綴じをしていたトゥーリが、呆れたように言った。

「そんなことないよ」

「ルッツが帰ってくるのは明日でしょ?」

「知ってるよ」

「じゃあ、外で物音がするたびに窓を見るの、やめたら?」

「見てないもん」

「見てるよ」

 トゥーリが笑う。

 わたしは返事をせず、原稿へ視線を戻した。

 ルッツが長期間街を離れるのは、これが初めてではない。商人として他の街へ行くことも増えたし、わたしだってその間にやることはたくさんある。

 それでも、今回はなぜか落ち着かなかった。

 出発前のルッツが、「帰ったら話がある」と言ったからだ。

 何の話なのか尋ねても、「帰ってからだ」としか答えてくれなかった。

 商売の話だろうか。

 新しい紙が見つかったのかもしれない。珍しい本を持っている商人と交渉できた可能性もある。

 そう考えると楽しみなのに、胸の奥が妙にそわそわする。

「ただいま」

 階下から聞き慣れた声がした。

 わたしは椅子から立ち上がった。

「ルッツ!?」

「マイン、走っちゃ駄目!」

 トゥーリの声を背中で聞きながら、階段へ向かう。

 急いで下りようとして、足を踏み外した。

「きゃっ」

「危ねぇ!」

 伸びてきた腕に、体を受け止められる。

 見上げれば、ルッツがひどく険しい顔をしていた。

「お前は何歳になったら、走るなって言いつけを守れるようになるんだ?」

「だって、ルッツが……」

「俺が?」

「明日帰ってくるはずだったのに」

「話が予定より早く終わったから、急いで帰ってきたんだよ」

 呆れた声を出しながらも、ルッツの腕はわたしをしっかり支えている。

 二十日ぶりに見るルッツは、少し日に焼けていた。旅の荷物を背負い、髪も風に乱されている。

 それでも、顔を見た瞬間、胸の奥に溜まっていた落ち着かなさが、すっと消えた。

「……おかえり、ルッツ」

「ああ。ただいま、マイン」

 ルッツの表情が緩む。

 それを見たら、何だか泣きそうになった。

「どうした?」

「何でもない」

「何でもない顔じゃないだろ」

「ルッツの顔を見たら、安心しただけ」

 口にしてから、急に恥ずかしくなった。

 ルッツが目を見開いている。

「……そういうこと、急に言うなよ」

「どうして?」

「こっちにも心の準備があるんだ」

 ルッツは顔を背けた。日に焼けた頬が、少し赤くなっている。

「とりあえず、立てるか?」

「うん」

 返事をしたのに、ルッツはすぐには腕を離さなかった。

 わたしも、離してほしいとは思わなかった。

 店の前を通る人の声が聞こえる。階段の上では、トゥーリがこちらの様子を見守っている。

 それに気づいたルッツが、ようやくわたしを立たせた。

「ルッツ、ありがと。」

 階段の上からトゥーリが声をかける。

「マイン、今日はもう原稿を読んでも頭に入らないでしょ? ルッツも、旅の話があるんじゃない?」

「うん。あるけど……」

「それなら、奥の作業部屋を使っていいよ。わたしは店番をしてるから」

「トゥーリ、何をニヤニヤしてるの?」

「別に?」

全く隠せていない笑顔を浮かべたまま、トゥーリは階段を下りていった。

残されたルッツは気まずそうに頬をかき、わたしの手を取る。

「……行くか」

「うん」

奥の作業部屋へ入り、扉を閉める。

二人きりになった途端、先程まで普通に握っていたはずの手が、急に熱く感じられた。

「ほら。土産がある」

 ルッツは旅の荷物から、布に包まれた物を取り出した。

 形を見ただけでわかる。

「本!?」

「やっぱり、最初に見るのはそっちかよ」

「見せて、ルッツ!」

 手を伸ばすと、ルッツは本を頭上へ持ち上げた。

 昔は同じくらいだった身長が、今ではずいぶん違う。どれだけ背伸びをしても届かない。

「ルッツ!」

「先に聞くことがある」

「本を見てからじゃ駄目?」

「駄目だ」

 ルッツの顔は真剣だった。

「俺がいない間、本当に寂しかったのか?」

「え?」

「新しい本が届かなくて退屈だったとか、仕事の相談相手がいなくて困ったとかじゃなくて……俺がいないことが寂しかったのかって聞いてる」

 考える。

 仕事の相談なら、ベンノさんやマルクさんにできる。工房のことはトゥーリも手伝ってくれる。本が読みたければ、今まで作った本がある。

 それでも、物足りなかった。

 新しい案を思いついた時、最初に話したい相手がいなかった。

 疲れた時に「休め」と叱る声が聞こえない。

 家へ帰る道を歩いても、隣にルッツがいない。

「……寂しかったよ」

 ルッツが息を止めた。

「毎日、ルッツに話したいことが増えていったの。新しいインクができたことも、次に作る本のことも、トゥーリが新しい髪飾りを作ったことも、全部」

「それ、俺じゃなくても聞けるだろ?」

「でも、最初にルッツに聞いてほしかった」

 本を掲げていた腕が、ゆっくりと下がる。

 けれどルッツは、本をわたしに渡さなかった。

 代わりに空いている腕をわたしの背中へ回し、強く抱き寄せた。

「ル、ルッツ?」

「少し黙ってろ」

 耳元で聞こえる声が、わずかに震えていた。

「俺も、何か見つけるたびに、お前に見せたいと思った」

 背中へ回された腕に力がこもる。

「変わった紙も、新しいインクも、珍しい料理も……お前なら何て言うのか、ずっと考えてた」

「うん」

「帰ってきたら、最初にお前の顔が見たかった」

「うん」

「だから、予定より早く終わらせた。お前がまた無茶してないか心配だったし」

「そこは信用してくれてもよくない?」

「できるわけないだろ」

 即答だった。

 顔を上げると、すぐ近くにルッツの顔がある。

 昔から見慣れているはずなのに、なぜか今は真っ直ぐ見られない。

「それで、帰ったら話があるって言ってたのは?」

「……俺がいない間、お前がどう思ってたのか聞きたかった」

「それだけ?」

「それだけじゃない」

 ルッツは少し迷うように視線を動かした後、わたしの頬へ手を添えた。

「これから先、俺が別の街へ行くことはもっと増える。長く帰れないこともあると思う」

「うん」

「でも、必ずお前のところへ帰ってくる」

 真剣な緑の目が、わたしを見つめている。

「だから、お前も俺が帰ってくる場所にいてほしい」

 胸が大きく鳴った。

 それは、既に婚約している二人なら、当然のことなのかもしれない。

 けれど、ルッツの口から改めて言われると、頬が熱くなる。

「わたし、本を読んでいて迎えに気づかないかもしれないよ?」

「知ってる」

「仕事に夢中で、食事を忘れるかもしれない」

「それも知ってる」

「一緒にいると、すごく苦労すると思うよ?」

「今さらだろ」

 ルッツが笑った。

「お前がどれだけ手のかかる奴か、俺より知ってる奴はいない」

「ひどい」

「それでも、お前の隣がいいって言ってるんだ」

 次の瞬間、額へ柔らかなものが触れた。

 口づけられたのだと気づくまで、少し時間がかかった。

「……ルッツ」

「何だよ?」

「もう一回」

「は?」

「今の、よくわからなかったから」

「嘘つけ。顔が真っ赤だぞ」

「ルッツだって赤いよ」

「うるさい」

 ルッツは困ったように眉を寄せた。

 それでも、わたしの頬に添えた手を離さない。

 今度は確認するようにゆっくりと顔を寄せ、唇へ触れるだけの口づけをした。

 心臓の音が、ルッツにも聞こえてしまいそうだった。

「……本当に、もう一回するとは思わなかった」

「お前が言ったんだろ」

「そうだけど」

「嫌だったか?」

 不安そうに尋ねるルッツへ、わたしは首を横に振った。

「もう一回でもいいかも」

「調子に乗るな」

 そう言いながら、ルッツの腕が再び背中へ回る。

 わたしはその胸元へ顔を寄せた。

 しばらくして、抱えられたままだった本を思い出す。

「ところで、その本は?」

「やっぱり最後は本かよ」

「ルッツも大事だけど、本も大事だよ」

「俺と本、どっちが大事だ?」

「そんな究極の選択をさせるなんて、ルッツはひどいよ!」

「冗談だ」

 ルッツは笑いながら、ようやく本を渡してくれた。

 包みを開くと、それは隣街からさらに遠くまで旅をした商人が書いた旅行記だった。

 頁の間には、ルッツの字で小さな紙が挟まれている。

「これは?」

「旅の途中で見つけた物や、お前に話そうと思ったことを書いておいた」

 紙は一枚ではない。

 頁をめくるたび、短い覚え書きが出てくる。

 珍しい植物。

 隣街の料理。

 紙工房で聞いた話。

 帰り道で見た夕焼け。

 全て、ルッツがわたしに見せたい、話したいと思ったものだった。

「これ、ルッツが作った本みたいだね」

「本ってほどじゃない。ただの覚え書きだ」

「わたしにとっては本だよ」

 大切に胸へ抱えると、ルッツが照れたように目を逸らした。

「今から読むのか?」

 いつものわたしなら、すぐに読み始めただろう。

 けれど今日は本を閉じ、ルッツの手を取った。

「後で読む」

「珍しいな」

「今は、ルッツが旅先で何を見たのか、ルッツの口から聞きたいから」

 ルッツが目を見開く。

 それから、嬉しそうにわたしの手を握り返した。

「じゃあ、最初から話す」

「うん」

「長くなるぞ」

「大丈夫。今日はずっと一緒にいるから」

 本は逃げない。

 明日になっても、同じ場所にある。

 けれど、二十日ぶりに帰ってきたルッツの声は、今この瞬間にしか聞けない。

 わたしはルッツの隣へ座り、その手を握ったまま、旅の話へ耳を傾けた。