領主会議を終えてアレキサンドリアへ戻ったフェルディナンドを待っていたのは、執務机に積み上げられた報告書だった。
不在はわずか数日である。それにもかかわらず、確認を要する案件は予想以上に増えている。
フェルディナンドは外套をセルギウスへ預け、そのまま執務室へ向かおうとした。
「フェルディナンド様」
背後から声をかけられ、足を止める。
振り返ると、ローゼマインがこちらへ向かって歩いてきた。供をするリーゼレータやコルネリウスが苦労するほどの早足である。
領主会議では隙のないアウブとして振る舞っていたというのに、城へ戻った途端にこれだ。
「廊下を急ぐな。転べばどうする」
「転ばないように気をつけています」
「気をつけている者は、そのような速度で歩かぬ」
ローゼマインは小言を聞き流し、フェルディナンドの前まで来ると、一冊の本を胸元に掲げた。
「できました!」
「何がだ?」
「領主会議へ向かう前にお話ししていた新刊です。昨日、製本が終わったそうですよ」
金色の瞳が、期待に満ちて輝いている。
「見れば本であることくらいわかる」
「そうではなくて、完成したら最初にフェルディナンド様へお見せすると約束したでしょう?」
「そのような約束をした覚えはない」
「わたくしが一方的に申し上げました」
「それは約束とは言わぬ」
「細かいことはよいのです。早く参りましょう」
「どこへ行くつもりだ?」
「わたくしの隠し部屋です。お茶も準備してもらいました」
当然のように、ローゼマインが手を差し出す。
執務室には報告書が待っている。
領主会議で決定した内容を整理し、各部署へ指示を出す必要もある。今夜中に確認しておいた方がよい案件だけでも、かなりの数になるだろう。
「フェルディナンド様?」
差し出された手は、そのままだ。
断られるとは考えていないらしい。
「……半刻だけだ」
「一刻にしてくださいませ」
「半刻だ」
「では、半刻を少し過ぎるくらいで」
「勝手に増やすな」
呆れながらも、その手を取った。
ローゼマインは満足そうに笑い、フェルディナンドの指へ自分の指を絡めた。
◇
隠し部屋の長椅子には、既に二人分の茶と菓子が用意されていた。
ローゼマインはフェルディナンドを隣へ座らせると、待ちきれない様子で本を開く。
「こちらをご覧ください。この挿絵は、新しく工房へ入った者が描いたのですよ。細い線がとても美しいでしょう?」
「ああ。だが、印刷すると一部が潰れる。次は線の間隔を広げるように指示した方がよい」
「やはりフェルディナンド様もそう思いますか? わたくしも同じことを考えていました」
それからローゼマインは、紙質がどう変わったのか、インクにどのような工夫をしたのか、製本を担当した者がどこで苦労したのかを話し続けた。
フェルディナンドは本を受け取り、頁をめくる。
以前の印刷物と比べれば、確かに技術は向上している。挿絵の精度も高くなり、文字の乱れも少ない。商品として他領へ出しても問題はないだろう。
「どうですか?」
「悪くない」
「悪くない、いただきました!」
「何だ、それは?」
「フェルディナンド様の『悪くない』は、かなり高い評価ですから」
ローゼマインは、さも嬉しそうに笑った。
単に事実を述べただけである。
フェルディナンドの評価によって、本の価値が変わるわけではない。彼が気に入らなかったとしても、ローゼマインはこの本を愛で、印刷業を発展させるだろう。
それでも、最初に見せたかったのだという。
完成したことを伝え、同じ箇所に目を留め、同じ改善点を見つけたことを喜んでいる。
ローゼマインは本へ視線を戻した。
頁をめくる指は丁寧で、口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
領主会議の間は、アウブとして各領地の思惑を読み、王族に対しても堂々と意見を述べていた。成長した姿を見て、周囲は女神の化身に相応しいと称賛した。
だが、フェルディナンドが見たいのは、そのような姿ではない。
新しい本を前にして目を輝かせる顔。
自分の予想を飛び越えたことを思いつき、褒められると得意げに胸を張る顔。
都合が悪くなれば視線を逸らし、叱られても懲りず、こちらが折れるまで何度でも同じ願いを口にする。
何より、嬉しいことがあれば真っ先にフェルディナンドへ知らせようとする。
それが、ひどく好ましい。
「フェルディナンド様、聞いていますか?」
「ああ」
「今、何のお話をしていたかわかります?」
「次は植物紙の原料を変えた比較本を作りたいので、研究費を増やしてほしいという話であろう」
「さすがです」
「その笑顔で誤魔化しても、予算を増やすとは言っていない」
「まだお願いしただけですもの。これから説得します」
ローゼマインがさらに距離を詰める。
「こちらの頁を見てください。紙を変えることで、インクの発色が――」
肩が触れる。
柔らかな髪から、いつも使っている香油の匂いがした。
ローゼマインは何も気にせず、フェルディナンドの腕へ身を寄せたまま本を覗き込んでいる。
この距離を許されることを疑っていない。
自分が拒絶される可能性など、初めから考えていないのだろう。
あまりにも無防備で、身勝手で、信頼に満ちている。
その事実が、胸の奥を強く締めつけた。
――ああ、私はこの女が好きなのだ。
領地の利益になるからではない。
魔力が釣り合うからでも、共に研究ができるからでもない。自分を救った恩に報いたいからでもなければ、彼女の能力を惜しんでいるからでもない。
ただ、この者が笑うと嬉しい。
自分を見つけて駆け寄ってくる姿が愛おしい。
喜びを共有する相手として、真っ先に自分を選ぶことに、どうしようもないほど満たされる。
理由など、それだけでよかった。
「フェルディナンド様?」
気づけば、ローゼマインが不思議そうに見上げていた。
「どうして、そのようなお顔でわたくしをご覧になるのですか?」
「どのような顔だ?」
「少し困っているような……でも、怒ってはいませんよね?」
自覚がない。
フェルディナンドは表情を整えようとしたが、うまくいかなかった。
「君があまりにも無防備なので、呆れているだけだ」
「隠し部屋には、わたくしとフェルディナンド様しかいないではありませんか」
「私がいるであろう」
「フェルディナンド様ならば問題ありません」
当然のように答え、再び本へ視線を戻す。
フェルディナンドは小さく息を吐いた。
彼女はきっと、自分が今どのような感情を抱いたのか想像もしていない。
知られれば調子に乗るかもしれない。自分がどれほど好かれているのか知れば、無理な要求を通すために利用する可能性もある。
それでも構わないと思う自分が、一番厄介だった。
「ローゼマイン」
「はい?」
振り向いた頬へ、指先で触れる。
そのまま顔を寄せ、額へ口づけた。
ローゼマインは目を丸くして固まった。
「……急にどうされたのですか?」
「別に」
「別に、で口づけをなさったのですか?」
「夫婦なのだから問題はなかろう」
「問題ではありませんけれど……理由が気になります」
「知らなくてよい」
「気になります」
「本を読むのではなかったのか?」
「あっ、そうでした。ここからが特に面白いのですよ」
あっさりと本へ意識を戻す姿に、フェルディナンドは苦笑した。
先程まで理由を追及していたはずなのに、本の一言で全てを忘れている。
手間がかかる。
目を離せない。
予想どおりに動くことなど、ほとんどない。
それでも、この者が隣にいる未来を選んでよかったと思う。
「フェルディナンド様、こちらもご覧ください」
「ああ。見せなさい」
差し出された本を受け取り、フェルディナンドは再びローゼマインと肩を寄せた。
半刻の約束がとうに過ぎていることには、二人とも気づかないふりをした。
