アレキサンドリア城へ帰還したのは、予定より一刻ほど遅い時間だった。
収穫量の確認を兼ねた直轄地の視察は、大きな問題こそなかったものの、予想以上に報告が多かった。同行した文官達は疲労を隠しきれず、騎士達も早く持ち場を離れたそうにしている。
フェルディナンドは出迎えた側近達へ簡潔に指示を出した。
「緊急性のない報告は明日に回せ。視察の記録は今夜中に整理しておくように」
全員が安堵した顔で礼をする。
以前ならば、このまま執務室へ向かっていただろう。報告書に目を通し、明日の予定を組み直し、必要な指示書を作成する。自分が休むのは、その後だ。
けれど今は、先に戻らなければならない場所がある。
「アウブは?」
「ご夕食後は、お二人の居室にいらっしゃいます」
側仕えの返答に頷き、フェルディナンドは廊下を進んだ。
遅くなることはオルドナンツで伝えてある。先に休むようにも言っておいた。素直に従うとは思っていなかったが、待たせるつもりもなかった。
居室の扉を開けると、予想どおりローゼマインが長椅子に座っていた。
膝には開かれた本があり、傍らの卓上には二人分の茶器が並んでいる。読書中だったはずなのに、扉の音を聞いた途端、彼女は顔を上げた。
「フェルディナンド様!」
ぱっと表情を明るくし、本を閉じて立ち上がる。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
外套を側仕えへ渡しながら答えて、数歩進んだところで、フェルディナンドは足を止めた。
室内が妙に静かだった。
ローゼマインは目を丸くしている。控えていた側仕え達も、一瞬だけ動きを止めていた。
「……何だ?」
「いいえ。何でもございません」
そう答えたローゼマインの口元が、隠しきれないほど緩んでいる。
「何でもない者の顔ではない」
「本当に何でもございませんよ。お疲れでしょう? お茶を淹れ直してもらいますね」
妙に弾んだ声で側仕えへ指示を出す。
フェルディナンドは眉を寄せながら長椅子へ腰を下ろした。ローゼマインも隣へ座る。いつもならばすぐに視察先の様子を尋ねるところだが、今日は何度もこちらを見ては、嬉しそうに笑っている。
「言いたいことがあるならば、さっさと言いなさい」
「怒りませんか?」
「内容による」
「先程、フェルディナンド様が『ただいま』とおっしゃったことが嬉しいだけです」
「……その程度のことか」
「その程度ではありません」
ローゼマインは、きっぱりと言い切った。
「今までのフェルディナンド様なら、『今戻った』とか『待つ必要はないと言ったであろう』とおっしゃっていたと思うのです」
容易に想像できる。
実際、そう言うつもりだった。
先に休むように命じたにもかかわらず、なぜ起きているのか。明日の執務に支障が出ればどうするのか。体調管理がなっていない。
少なくとも三つほど小言を用意していたはずだった。
だが、ローゼマインの顔を見た瞬間、そのいずれも口から出てこなかった。
「『ただいま』は、帰る場所がある人の言葉でしょう?」
何気なく言われた言葉に、フェルディナンドは黙り込んだ。
エーレンフェストへ戻ったことは何度もある。
貴族院から、討伐から、領主会議から。城へ戻れば側近達が出迎え、神殿へ戻れば側仕え達が整然と並んでいた。
だが、それは帰還の報告であり、次の仕事の始まりだった。
アーレンスバッハでは、なおさらだ。館へ戻っても気を抜くことはできず、最も安らげる場所は、誰も入れない隠し部屋の長椅子だった。
誰かに向かって、自分が帰ってきたことを告げる必要などないと思っていた。
「フェルディナンド様?」
覗き込んでくる金色の瞳を見つめる。
ローゼマインがいる。
自分の帰りが遅いと落ち着かず、先に休めという命令を無視し、本を読みながら待っている。帰れば笑顔を向け、おかえりなさいと告げる。
明日も、その次の日も、それが続くことを疑っていない。
「……待つ必要はないと言ったはずだ」
「ほら、やっぱり小言をおっしゃるではありませんか」
「君の体調を考えている」
「わかっています。でも、今日はお迎えしたかったのです」
「なぜだ?」
「三日も離れていたのですから、早くお顔を見たかったのですよ」
あまりにも素直な言葉に、返答が遅れる。
その隙にローゼマインは、そっとフェルディナンドの袖をつかんだ。
「おかえりなさいませ、フェルディナンド様」
二度目の挨拶は、先程よりも静かだった。
答えを求めるような眼差しを向けられ、フェルディナンドは小さく息を吐く。
「……ただいま、ローゼマイン」
今度は意識して口にした。
先程よりもずっと言いにくい。わずか一言にもかかわらず、自分の内側を差し出しているような居心地の悪さがあった。
それでも、言わなければよかったとは思わない。
「はい」
ローゼマインは満足そうに笑い、つかんでいた袖を離した。
「夕食は済ませたのであろう?」
「済ませました」
「ならば、その菓子は何だ?」
「フェルディナンド様がお帰りになったら、一緒に食べようと思って残しておいたのです」
「この時間に食べれば、側仕えに叱られるのではないか?」
「フェルディナンド様が共犯ならば、叱られる時も一緒です」
「私を巻き込むな」
呆れながらも、差し出された皿を拒むことはしなかった。
視察先で起きたことを話し、ローゼマインの報告を聞き、二人で菓子を分ける。
それだけの夜だった。
国を動かす相談もなければ、命を懸けた駆け引きもない。何かを奪うための策も、誰かから逃れるための準備も必要ない。
ただ、帰りを待つ者がいて、共に過ごす明日がある。
かつての自分ならば、そのようなものに価値があるとは考えなかっただろう。
失えば弱点になる。奪われれば苦しむ。ならば初めから持たなければよい。
そうして何も望まず、一人で生きられるようにしてきた。
けれど今は、視察を終えた時に思い浮かぶ顔がある。
戻らなければならない場所ではなく、戻りたいと思う場所がある。
その夜、寝台へ入ったローゼマインは、眠りに落ちる寸前まで上機嫌だった。
「フェルディナンド様」
「今度は何だ?」
「またお出かけになった時も、帰ってきたら言ってくださいね」
「毎回言わせるつもりか?」
「もちろんです。わたくしも毎回、おかえりなさいと申し上げます」
「……そうか」
隣から聞こえる寝息が穏やかなものに変わる。
フェルディナンドは、眠ったローゼマインの頬にかかった髪を指先で払った。
「ただいま」と言えば、「おかえりなさい」と返ってくる。
明日、目を覚ませば彼女がいる。
出かけても、ここへ帰ってくればよい。
「……悪くない」
誰に聞かせるでもなく呟き、フェルディナンドは目を閉じた。
