異変に最初に気づいたのは、ローゼマインだった。
朝の執務室で、フェルディナンドが同じ報告書を二度読み返している。
それだけならば、記載内容に不備がある可能性も考えられる。だが、報告書の端を指で二度叩き、眉間に皺を寄せてから、再び最初の行へ視線を戻した。
普段のフェルディナンドならばあり得ない。
「フェルディナンド様」
「何だ?」
「先程から、同じところを読んでいませんか?」
「記載に不明瞭な点があるだけだ」
「どこです?」
「……今、確認している」
回答が遅い。
ローゼマインは手元の書類を置き、フェルディナンドを観察した。
顔色が悪い。いつもより瞳が重そうで、卓上に置かれた茶にもほとんど手をつけていない。
「体調がお悪いのではありませんか?」
「問題ない」
間髪を入れず返ってきた。
その速さが、かえって怪しい。
「問題がない方は、同じ報告書を何度も読みません」
「君に指摘されるほど注意力が落ちているつもりはない」
「わたくしでも気づけるほど落ちているのですよ」
フェルディナンドの眉間の皺が深くなった。
言い返そうと口を開いたものの、突然、小さく息を詰める。机へ片手をつき、目を閉じた。
その瞬間、ローゼマインは椅子から立ち上がった。
光の帯がフェルディナンドを捕らえる。
「ローゼマイン!」
「動かないでくださいませ」
「いきなり何をする!?」
「逃走防止です」
「私は逃げぬ!」
「神殿で体調を崩した時も、アーレンスバッハで倒れる寸前まで働いた時も、似たようなことをおっしゃっていました」
ローゼマインはフェルディナンドの額へ手を伸ばした。
触れた肌は、明らかに熱い。
「熱があります」
「この程度は体調不良のうちに入らぬ」
「入ります!」
声を上げると、執務室の扉が開いた。
「アウブ・アレキサンドリア、お呼びでしょうか?」
入ってきたハルトムートが、光の帯に拘束されたフェルディナンドを見て、一瞬だけ目を輝かせた。
「ついに処罰なさるのですか?」
「違います! フェルディナンド様が熱を出しているのに、お仕事を続けようとしているのです」
「なるほど。アウブの御心を煩わせた罪ですね」
「ハルトムート、余計な解釈を加えるな」
フェルディナンドの低い声を、ハルトムートは完璧な笑顔で受け流した。
「では、フェルディナンド様の御不調を広めない範囲で、必要な者だけを集めましょう」
「集める必要はない」
「あります。フェルディナンド様の本日の執務を、全て取り上げます」
「待ちなさい、ローゼマイン」
フェルディナンドの声が低くなる。
「今日中に処理すべき案件がいくつあると思っている? 中央からの問い合わせも、直轄地の収支報告も、神殿の移転計画も――」
「全部、側近達に振り分けます」
「君一人で判断できる内容ではない」
「わたくしはアウブですよ」
「そのアウブが一番信用ならぬから言っている」
「ひどいです!」
二人が言い争っている間に、ハルトムートは既にオルドナンツを飛ばしていた。
間もなく、執務室へ次々と側近達が集まってくる。
最初に現れたのは、エックハルトとユストクスだった。
「フェルディナンド様が体調を崩されたと伺いました」
エックハルトは真剣な顔で主を見つめた。
「少し熱があるだけだ。騒ぐ必要はない」
「そうおっしゃって無理をなさることは存じております」
「エックハルト?」
「アウブ・アレキサンドリア、フェルディナンド様をお休ませください。執務室から寝室までお運びする必要があるならば、私が担当いたします」
「エックハルト兄様、其方はどちらの味方だ!?」
「フェルディナンド様の味方です。ですから、お休みいただきます」
迷いのない返答だった。
その隣で、ユストクスは卓上の書類を素早く確認している。
「本日中に処理が必要なのはこちらの三件ですね。明日以降で構わないものが七件。これはフェルディナンド様が御自分で処理したいだけで、急ぎではありません」
「勝手に書類を分類するな」
「長年お仕えしておりますから、フェルディナンド様がどのように仕事を隠すのかは心得ていますよ」
ユストクスは机の引き出しを開け、底板の下から別の書類を取り出した。
「ほら、こちらにもございました」
「……其方」
「寝室へお持ち込みになる予定でしたね?」
フェルディナンドの周囲から、冷気が漂い始める。
しかし、今のユストクスにはアウブの命令という強力な盾があった。嬉々として書類を回収していく。
続いて入ってきたセルギウスは、室内の状況を一目で把握した。
「寝室の準備を整えます。筆記具や書類は全て撤去し、薬と水だけをご用意いたしましょう」
「待て。筆記具まで取り上げる必要はない」
「必要がなければ、お困りにはならないはずです」
淡々とした言葉に、フェルディナンドが沈黙した。
「さすがセルギウスですね」
リーゼレータが感心したように微笑み、その隣でグレーティアが静かに頷く。
「ローゼマイン様がお世話をなさろうと無理をする可能性もございます。お二人とも休めるように整えましょう」
「わたくしは元気ですよ?」
「ローゼマイン様は、フェルディナンド様の分まで全て御自分で処理しようとなさるでしょう?」
グレーティアに見抜かれ、ローゼマインは視線を逸らした。
今度は文官達が入ってくる。
クラリッサは事情を聞くなり、拳を握った。
「ローゼマイン様の御心を守るためにも、フェルディナンド様には確実に休養していただかなければなりません!」
「其方は少し声を落としなさい」
「申し訳ございません! ですが、ローゼマイン様を御心配させるなど――」
「クラリッサ、その議論は後です」
マティアスが冷静に割って入り、机の上の書類へ目を向けた。
「案件を重要度と期限で分けましょう。領内で処理できるもの、アウブの決裁が必要なもの、フェルディナンド様の確認が不可欠なものに分類すれば、一日程度は問題なく回せます」
「中央への返答は僕とフィリーネで下書きを作ります」
ローデリヒが控えめに申し出ると、フィリーネもすぐに頷いた。
「過去の記録と照合して、必要な資料を揃えます。最終確認を明日以降に回せるものは、まとめておきますね」
「他領とのやり取りは俺が確認しますよ」
ラウレンツが軽い調子で書類を手に取る。
「急かしてくる相手には、アレキサンドリアらしく優雅にお待ちいただきましょう」
「其方の優雅は信用できぬ。マティアスが確認しなさい」
反射的に指示を出したフェルディナンドへ、全員の視線が集まった。
「……何だ?」
「いえ。お休みになる状態でも、指示だけは的確だと思いまして」
ラウレンツが笑う。
「黙りなさい」
「はいはい。あとは我々にお任せください」
護衛騎士達も集まってきた。
レオノーレはすぐに状況を整理し、警護の配置を組み直す。
「フェルディナンド様の体調不良を外部へ悟られないよう、通常どおりの警備を続けます。寝室前は交代で護衛いたしましょう」
「わたくしが扉の前に立ちます」
アンゲリカが胸を張った。
「フェルディナンド様を外へ出さなければよいのですね?」
「そのとおりです」
ローゼマインが答えると、アンゲリカは満足そうに頷いた。
「簡単な任務です。得意です」
「待ちなさい。なぜ私が出ようとした場合まで想定している?」
「フェルディナンド様なら、窓からでも出ていきそうだからではありませんか?」
コルネリウスの言葉に、エックハルトが真顔で頷いた。
「騎獣を出される可能性もあります。窓にも見張りを置きましょう」
「エックハルト、其方まで何を言っている!?」
「フェルディナンド様を確実にお守りするためです」
二人の兄が当然のように頷き合う。
ダームエルは少し離れた場所で、深く同情するような目をフェルディナンドへ向けていた。
「ダームエル。其方はわかっているであろう? この程度で執務を止める必要はないと説明しなさい」
突然指名されたダームエルは、困った顔で周囲を見回した。
ローゼマイン、エックハルト、ハルトムート、アンゲリカ。
逃げ道はない。
「……申し訳ございません、フェルディナンド様。私にはどうすることもできません」
「最初から何もする気がない顔だな」
「私では、どなたにも勝てませんので」
極めて現実的な判断だった。
「では、決定ですね」
ローゼマインは胸を張り、フェルディナンドを真っ直ぐ見つめた。
「アウブ・アレキサンドリアとして命じます。フェルディナンド様は本日の執務を全て側近へ預け、寝室で休養してくださいませ」
「……私が拒否すると言ったら?」
「エックハルト兄様に運んでいただきます」
「喜んで」
エックハルトが即答した。
「運ぶこともできますよ」
「君は私を荷物のように扱うな!」
「倒れるまで働く方が悪いのです!」
結局、フェルディナンドは自ら歩くことを選んだ。
寝室へ入ると、既にセルギウスによって机上の書類も筆記具も片づけられていた。隠し部屋へ持ち込んでいた仕事まで、ユストクスが回収済みである。
寝台へ入って間もなく、扉の向こうから声が聞こえた。
「フェルディナンド様。ローゼマイン様がお見えです」
「入れ」
リーゼレータに伴われ、ローゼマインが入ってくる。手には薬と水だけがあり、書類は持っていない。
「仕事はどうした?」
「皆が手分けしてくれています。ハルトムートとクラリッサが全体を管理し、マティアスが内容を確認しています。フィリーネとローデリヒも張り切っていますよ」
「君は?」
「わたくしはフェルディナンド様を見張る係です」
「必要ない」
「必要です。先程、隠し部屋に仕事を持ち込もうとしていたそうではありませんか」
「ユストクスめ……」
ローゼマインは寝台の傍らへ椅子を寄せた。
「お薬を飲んだら、眠ってくださいませ」
「君がそこにいては眠れぬ」
「では、本を読んで静かにしています」
「本を持ってきているではないか!」
背後から取り出された本を見て、フェルディナンドは頭を抱えた。体調のせいか、いつも以上に頭痛が増した気がする。
薬を飲み、寝具へ体を沈める。
ローゼマインが紙をめくる音が聞こえ始めた。
規則正しいとは言い難い、聞き慣れた音だった。
「ローゼマイン」
「何ですか?」
「其方まで執務を抱え込むのではないぞ」
「わかっています」
「信用できぬ」
「フェルディナンド様にだけは言われたくありません」
「私は君のように突然倒れたりせぬ」
「今日、倒れかけたではありませんか」
反論できず、フェルディナンドは目を閉じた。
しばらくして、紙をめくる音が止まる。
薄く目を開けると、ローゼマインが本を膝に置いたまま、椅子で眠っていた。
「全く……君は何をしているのだ」
起き上がろうとしたところで、扉が静かに開く。
様子を見に来たリーゼレータが、すぐにローゼマインを起こそうとした。
「待ちなさい」
フェルディナンドは小声で止める。
「しかし、このままではローゼマイン様が体調を崩されます」
「寝台へ移せばよい」
リーゼレータの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「かしこまりました」
ローゼマインはフェルディナンドの隣へ寝かされた。少し身じろぎしたものの、目を覚ます様子はない。
フェルディナンドは寝具を掛け直し、その額に触れる。
熱はない。
確認してから、自分も再び横になった。
「フェルディナンド様」
眠っていると思ったローゼマインが、目を閉じたまま呟いた。
「起きていたのか?」
「少しだけです。……きちんと休んでくださいませ」
「君もな」
「はい。明日も皆がいてくれますから、大丈夫です」
それはフェルディナンドには馴染みの薄い考え方だった。
自分が止まれば、物事も止まる。自分が確認しなければ、誰かが誤る。だから休むわけにはいかない。
ずっと、そう思ってきた。
だが今は、扉の外にアンゲリカが立ち、レオノーレが警護を整え、エックハルトとユストクスが仕事を取り上げている。文官達は案件を分担し、側仕え達は二人の体調を管理している。
そして隣には、ローゼマインがいる。
「……明日の報告には、私も目を通す」
「元気になったら、です」
「条件を付けるな」
「アウブ命令です」
ローゼマインは満足そうにフェルディナンドの夜着をつかんだ。
その温もりと寝息を感じながら、フェルディナンドは目を閉じる。
自分が一日休んでも、アレキサンドリアは動いている。
目を覚ませば、必要な者達がいる。
一人で全てを支えなくてもよいのだと認めるには、まだ時間がかかるだろう。
それでも今夜くらいは、彼らに任せてもよい。
そう考えた途端、張り詰めていた力が抜けた。
翌朝、珍しく寝過ごしたフェルディナンドを見て、ローゼマインの側近達が密かに安堵し、エックハルトとユストクスが満足げに頷いた。
ただし、目を覚ましたフェルディナンドが最初に発したのは、
「アンゲリカ。いつまで扉を塞いでいるつもりだ」
という小言だった。
「ローゼマイン様から、フェルディナンド様がお元気になるまでと命じられています」
「私はもう元気だ」
「お医者様の許可は出ましたか?」
「……誰がそのような余計な知恵をつけた?」
「レオノーレです」
扉の向こうで、側近達が笑いを堪えている気配がした。
フェルディナンドが執務室へ戻れたのは、それからさらに半日後のことだった。
