領地ごと、君を

フェルディナンドがローゼマインを分からせるためのSS


夕食を終えた後、ローゼマインは夫婦の居室にある長椅子で本を開いていた。

頁へ視線を落としてはいるものの、内容は少しも頭に入ってこない。

同じ行を三度読み返したところで、本の上に大きな手が置かれた。

「先ほどから一頁も進んでいないぞ」

向かいで書類を読んでいたはずのフェルディナンドが、いつの間にかすぐ傍に立っていた。

「考え事をしていただけです」

「本を読みながらできる考え事など、君にはないであろう」

反論できない。

本を取り上げられたローゼマインは、名残惜しそうに手を伸ばす。

けれど、フェルディナンドは届かない場所へ本を置くと、隣へ腰を下ろした。

「何があった?」

「大したことではありません」

「君が本を読めなくなるほどのことを、大したことではないと?」

金色の瞳に見据えられ、ローゼマインは諦めて口を開いた。

「今日のお茶会で、少し言われたのです」

「何を?」

「フェルディナンド様がわたくしと結婚したのは、アレキサンドリアを守るための最適解だったのでしょう、と」

フェルディナンドの眉間に皺が寄った。

「誰が言った?」

「そのような怖い顔をなさらないでください。悪意があったわけではありません。フェルディナンド様が領地を立て直すためにどれほど尽力されているか、という賞賛の流れで出た言葉です」

「相手の名は?」

「言いません」

「ローゼマイン」

声が一段低くなる。

ローゼマインは慌てて首を振った。

「本当に、相手を罰するようなことではないのです。それに、わたくしも正しいと思いました」

「……何?」

「フェルディナンド様は、この領地を守るために最も合理的な方法を選んだのでしょう?」

婚姻によって礎を染めたアウブの伴侶となれば、領地の政務にも防衛にも深く関われる。

傍から見れば、これ以上ないほど合理的な選択だ。

「もちろん、わたくし達は家族です。ですから、他の誰かと結婚するよりは良いと思ってくださったのでしょうし――」

「待て」

言葉を遮られる。

フェルディナンドは額を押さえ、深い溜息を吐いた。

「君は、私がアレキサンドリアを守るために君と結婚したと思っているのか?」

「違うのですか?」

「逆だ」

「逆?」

問い返した途端、肩を掴まれた。

体ごと向きを変えられ、正面から見つめ合う形になる。

「君は、私が贈った婚約魔石の言葉を覚えていないのか?」

「覚えています。『アレキサンドリアの領地ごと君を守る』でしょう?」

一字一句、忘れるはずがない。

「ならば、なぜ取り違える?」

フェルディナンドの指が、ローゼマインの頬へ触れた。

「私が守ると誓った対象は領地ではない。君だ」

低い声が、静かな部屋へ落ちる。

「領地は、君が決して手放せぬものだから含めただけだ」

「含めた、だけ……」

「そうだ。図書館も、下町も、神殿も、君の側近も、領民も。君が守ろうとして一人で無茶をするものを、全てまとめて私の庇護下に置いた」

親指が頬をゆっくり撫でる。

「君を守るために、領地ごと守る必要があった。それだけだ」

胸の奥が熱くなる。

「でも、礎を得るためにも婚姻は必要だったでしょう?」

「君と婚姻せずとも、領地を支える方法はいくらでもあった」

フェルディナンドの顔が近づく。

「私が欲しかったのは、政務へ介入する権利ではない」

「では、何が欲しかったのですか?」

「まだ言わせるつもりか?」

「きちんと口にしていただかなければ、わかりません」

そう答えると、フェルディナンドは一瞬言葉に詰まった。

耳がわずかに赤くなる。

けれど、ローゼマインが逃さず見つめていると、諦めたように息を吐いた。

「君の隣にいる権利だ」

触れていた手が後頭部へ回る。

「公の場でも、私的な場でも、最も近くで君を守り、君の帰る場所となる権利が欲しかった」

「フェルディナンド様……」

「君を家族として囲い込むためには、婚姻が最も確実だった。それを合理的な選択と言うならば、否定はせぬ」

妙にフェルディナンドらしい告白に、ローゼマインの口元が緩む。

「つまり、アレキサンドリアを得るために、わたくしと結婚したのではなく――」

「君を得るために、アレキサンドリアまで引き受けた」

はっきりと言い切られ、顔へ熱が集まった。

「理解したか?」

「はい」

「本当に?」

「はい。よく理解いたしました」

答えたのに、フェルディナンドの目が細められる。

「先ほどまで妙な思い込みをしていた者の返答は信用できぬな」

「どうすれば信用していただけるのですか?」

「そうだな……」

後頭部へ添えられた手に力が入り、顔が引き寄せられる。

「言葉だけで足りぬならば、態度で示すしかあるまい」

「え?」

問い返すより先に、唇が重なった。

触れるだけの口づけ。

けれど、離れたと思った次の瞬間には角度を変えて再び塞がれる。

フェルディナンドの胸元へ手をつくと、その手まで捕らえられ、指を絡めるように握られた。

「ん……フェルディナンド様……」

「何だ?」

「もう、理解しました」

「まだ足りぬ」

「なぜですか!?」

「君は私の言葉を一度で理解しなかった。二度や三度の説明で足りるとは思えぬ」

「それは理屈がおかしいです」

「異論は後で聞こう」

また唇が重なる。

先ほどまでの説明よりもずっと丁寧に、そして反論を許さない口づけだった。

ようやく解放された頃には、ローゼマインの息は上がり、フェルディナンドの衣を掴んでいなければ姿勢を保てなくなっていた。

「……これで理解したか?」

額を合わせたまま尋ねられる。

「フェルディナンド様は、わたくしを守りたかった」

「そうだ」

「わたくしを得るために結婚した」

「そうだ」

「アレキサンドリアは、ついで」

「そこまでは言っていない。君が大切にしている以上、私にとっても守る価値がある」

ローゼマインは少し考え、フェルディナンドの首へ腕を回した。

「では、わたくしもフェルディナンド様を守ります」

「君が?」

「はい。フェルディナンド様がお仕事をしすぎないように見張って、きちんと食事と睡眠を取らせます。毒を盛られないようにして、危険な場所へ一人で行かせません」

「それは私の側近がすることだ」

「それに、フェルディナンド様が『自分は家族として必要とされているだけだ』などと妙な思い込みをした時には――」

ローゼマインは少し背伸びをして、自分からその唇へ口づけた。

驚いた金色の瞳が、大きく見開かれる。

「言葉と態度の両方で、きちんと教えて差し上げます」

してやったりと笑うと、フェルディナンドはしばらく無言でローゼマインを見つめた。

「……ローゼマイン」

「何でしょう?」

「今の発言を後悔せぬようにな」

「なぜ後悔する必要が――きゃっ!」

突然抱き上げられ、ローゼマインはフェルディナンドの首へしがみついた。

「ど、どちらへ行くのですか!?」

「君の言う『言葉と態度の両方』が、どの程度のものか確認する」

「確認は今ここで済んだでしょう!?」

「私には足りぬ」

迷いなく扉へ向かうフェルディナンドの肩には、先ほど脱いだ闇の神のマントが掛かっている。

廊下へ出る直前、そのマントが大きく翻り、ローゼマインの赤い顔をすっぽりと覆い隠した。

「前が見えません!」

「側近にその顔を見られたいのか?」

「それは嫌ですけれど……」

「ならば大人しくしていなさい」

闇のマントの内側で、ローゼマインはフェルディナンドの胸へ顔を埋める。

規則正しく聞こえてくるはずの鼓動は、珍しく少しだけ速かった。

それに気付いて笑うと、マントの上から抱く腕が強くなる。

「何がおかしい?」

「いいえ。わたくしも、少しわからせることができたようだと思いまして」

フェルディナンドの足が止まる。

「なるほど。まだ余裕があるようだな」

「え?」

「今夜は、互いに完全に理解するまで話し合うとしよう」

再び歩き出した足は、先ほどよりも少しだけ速い。

ローゼマインはようやく、自分が不用意なことを言ったのだと理解した。

けれど、闇のマントの陰で浮かんだ笑みを、最後まで消すことはできなかった。


フェルディナンドはローゼマインを抱いたまま、寝室へ続く扉を開いた。

後ろ手に扉を閉めると、枕元にある範囲指定の盗聴防止の魔術具へ魔力を流す。

淡い光が部屋を包み、外界の音が途絶えた。

「フェルディナンド様。話し合いに、盗聴防止まで必要なのですか?」

「君は、これから行うことを側近に聞かせたいのか?」

「これから行うこと……?」

聞き返してから、ローゼマインの顔が一気に熱くなる。

「ま、待ってください。わたくしが言ったのは、言葉と態度で大切だと伝えるという意味で――」

「私もそのつもりだが?」

「フェルディナンド様の考える『態度』が、わたくしの想定と異なる気がします!」

「奇遇だな。私も、君の理解が足りていないと感じていたところだ」

寝台の前へ到着すると、フェルディナンドは腕の中のローゼマインを見下ろした。

金色の瞳には、いつもの冷静さとは異なる熱が宿っている。

「今ならば、先ほどの言葉を撤回することを許そう」

ローゼマインは瞬きをした。

逃げる機会を与えているのだと、少し遅れて気付く。

彼の首へ回していた腕を解けば、きっとすぐに下ろしてくれるだろう。

けれどローゼマインは、逆にその腕へ力を込めた。

「……、撤回しません」

「……そうか」

フェルディナンドの薄い金色の目が細められる。

「わたくしも、フェルディナンド様にきちんと理解していただきたいですから」

「それは殊勝な心掛けだ」

「ですから、まずはわたくしから――」

自分から口づけようと顔を寄せた瞬間、抱いていた腕が緩んだ。

均衡を失ったローゼマインの体が、柔らかな寝台へ沈む。

「きゃっ……」

黒い外套が大きく翻り、夜の帳のように二人を包んだ。

その上からフェルディナンドの体が重なり、両側へ腕をつかれる。

逃げ道を塞がれた形になり、ローゼマインは目を見開いた。

「フェルディナンド様?」

「君は先ほど、互いに完全に理解するまで話し合うと言ったな?」

「言ったのはフェルディナンド様です!」

「そして君は同意した」

「それは……そう、ですけれど」

フェルディナンドが身を屈める。

唇が触れ合う寸前で止まり、互いの吐息だけが混ざった。

「ならば、最後まで付き合いなさい」

重なった口づけは、先ほどまでよりも深く、長かった。

後頭部へ回された手が、ローゼマインを逃がさない。

けれど逃げるつもりなど、最初からなかった。

ローゼマインは目を閉じ、フェルディナンドの背へ腕を回す。

それを合図と受け取ったように、口づけがさらに深くなった。

ようやく唇が離れた時には、どちらの呼吸も乱れていた。

「……わたくしが大切だということは、十分に理解しました」

「そうか」

「ですから、説明はもう――」

「私はまだ理解していない」

「何をですか?」

「君が、私をどれほど必要としているのかを」

言葉を失ったローゼマインの頬へ、フェルディナンドの唇が触れる。

目元へ。

こめかみへ。

そして再び、唇へ。

「態度で示してくれるのであろう?」

甘く低い声が、耳元へ落ちる。

「……ずるいです、フェルディナンド様」

「今さらであろう」

闇のマントに覆われた寝台の上で、二人の影が重なる。

その夜、互いの大切さを確認するための「話し合い」は、ローゼマインが想像していたよりも、ずっと長く続いた。