観察対象、アウブ・アレキサンドリア

――フェルディナンド視点

夜も深くなり、執務室には二人分の呼吸と紙を捲る音だけが残っていた。

側近達はすでに下がらせている。

机の上に積まれていた報告書も大半は片付き、残っているのは明日に回しても支障のないものだけだ。

それでもローゼマインは席を立とうとしなかった。

領都の設計図を広げ、商業区画に置かれた印を指先で一つずつ確かめている。時折、小さく眉を寄せては、傍らの報告書へ何かを書き加えていた。

「この場所には、もう少し広い荷下ろし場が必要ですね。馬車が増えれば、道を塞いでしまいます」

独り言のような呟きに、私は返事をしなかった。

答えを求めているのではない。自分の中で考えを整理しているだけだ。

領主になってから、ローゼマインにはこうした時間が増えた。

誰かの意見を聞き、フェルディナンドならばどう考えるかと尋ね、最善と思われる答えを選んでいた少女は、今、自分の領地をどのような場所にするのか自ら考えている。

もちろん、未だに現実を無視した要求を口にすることはある。

図書館を増やしたい。

孤児院の子供達に教育を与えたい。

職人達が仕事をしやすい環境を整えたい。

他領から本と人材を集めたい。

そして、その全てを一度に実現しようとする。

相変わらず欲深く、加減を知らず、目を離せば領地の財政も自分の体力も使い尽くしかねない。

だが、以前とは違う。

今のローゼマインは、ただ望むだけではない。

何を優先し、何を先送りし、誰に任せれば実現できるのかを考えている。

できないと言われて頬を膨らませるのではなく、できない理由を一つずつ取り除こうとする。

……実に厄介なアウブに成長したものだ。

「フェルディナンド様」

呼ばれて顔を上げる。

ローゼマインはこちらを見ていなかった。

視線は設計図へ向けられたままである。

「この辺りに小さな広場を作ることはできますか? 商人達が集まる場所があれば、新しい情報や商品が自然と行き交うと思うのです」

「作ること自体は可能だ。だが、其方が考えているほど美しく秩序立った場所にはならぬぞ。管理する者を置かなければ、露店が無秩序に増えて道を塞ぐ」

「では、使用許可を出す商業ギルドの支部を近くに置きましょう」

「管理する人員はどうする?」

「……これから考えます」

ローゼマインは少しだけ唇を尖らせ、設計図に印を付けた。

その仕草に、ふと昔の姿が重なる。

神殿の隠し部屋で、子供用の机に向かって計算をしていた小さな青色巫女見習い。

注意すれば不満そうに頬を膨らませ、褒めれば指輪から祝福を飛ばし、目を離せば本へ突進した。

小さく、脆く、自分の身すら守れなかった。

それが今は、アウブとして一つの領地を背負っている。

領地の未来を思い描き、そのために必要なものを自分の手で設計図へ書き込んでいる。

時間とは、奇妙なものだ。

本人の中身はそれほど変わっていないように思えるのに、こうして見ていると、私の知る少女とはまるで別人に見える瞬間がある。

長く伸びた夜色の髪が、肩からさらりと滑り落ちた。

ローゼマインは邪魔そうにそれを耳へかける。

灯りを受けた横顔には、幼い頃の丸みがほとんど残っていない。伏せられた睫毛が頬に影を落とし、金の瞳は設計図だけを映している。

アウブとして振る舞う時のローゼマインは美しい。

領主会議で他領のアウブと対峙する時も、神殿で祈りを捧げる時も、多くの者が彼女へ目を奪われる。

神々の御力をその身に宿した女神の化身。

新しい領地を作り上げた未成年のアウブ。

誰もが、ローゼマインをそのように見る。

だが、彼らは知らない。

真剣な顔で設計図を眺めている今も、その下には図書館へ続く道を少しでも短くしたいという欲望が隠されている。

商業区画を整えようとしている理由の一つが、他領から本を仕入れやすくするためであることも。

アウブらしい顔で仕事をしているくせに、手元の仕事が終われば隣に積んである新刊を読もうと狙っていることも。

それを知っているのは、私だけだ。

そう考えた瞬間、胸の奥に奇妙な満足感が広がった。

私は眉を寄せた。

何故、そこで満足する?

ローゼマインの本性を知っている者は他にもいる。下町の家族も、古くから仕えている者達も、彼女の暴走に付き合わされてきた側近達もいる。

私だけではない。

……それが面白くないと感じる理由は、考えない方がよいだろう。

「フェルディナンド様?」

不意に金の瞳がこちらを向いた。

まともに視線が重なる。

「先ほどから手が止まっていますよ」

「其方にだけは言われたくない」

「わたくしはきちんと仕事をしています」

「図書館の前に広場を作ろうとしているように見えるが?」

「図書館の前とは限りません」

ローゼマインの手が、さりげなく設計図を覆う。

「手を退けなさい」

「まだ考えている途中です」

「退けなさい」

「フェルディナンド様は、わたくしの案をすぐに却下するではありませんか」

「却下されるような案を出す其方が悪い」

しばらく睨み合った後、ローゼマインが諦めたように手を退けた。

案の定、広場のすぐそばには中央図書館の予定地がある。

私は溜息を吐いた。

「やはり図書館ではないか」

「商人が集まれば、自然と情報も本も集まります。領地の発展を考えた合理的な配置ですよ」

「其方の欲望に領地の発展という名札を付けただけであろう」

「結果的に領地が発展するならば問題ありません」

悪びれもせず言い切ったローゼマインが、楽しそうに笑う。

その表情を見た瞬間、私は言葉を失った。

アウブとして作る微笑みではない。

神事で見せる慈愛に満ちた笑みでもない。

ただ、自分の考えた未来を楽しむ少女のような顔だった。

かつて本を作るのだと言って、何もなかったところから紙を作り、印刷業を興した時と同じ目をしている。

あの頃から変わらない。

だが、今の彼女が思い描いているのは一冊の本ではなく、一つの領地の未来だ。

私が守ろうとした土地は、守るだけで精一杯だった。

先代アウブとの約束を果たすため、崩れぬように支え、余計な火種を潰し、最悪の事態を避け続けた。

ローゼマインは違う。

何もない場所に、新しいものを作ろうとする。

その結果が必ずしも正しいとは限らない。失敗することもあるだろう。

それでも彼女は、失敗を恐れて立ち止まることはない。

「……其方は、本当にアウブになったのだな」

口から零れた言葉に、ローゼマインが瞬いた。

「今更ですか?」

「今更だな」

「ずいぶん前に就任したと思うのですけれど」

「肩書きの話ではない」

ローゼマインは不思議そうに首を傾げる。

説明するつもりはなかった。

私の庇護がなければ生きていけなかった少女が、誰かを庇護する立場になった。

私が導かなければ危険な方向へ突き進んでいた少女が、自ら領地の進む道を選ぼうとしている。

その事実が誇らしく、同時に、わずかに寂しい。

そのような感情を、本人へ説明できるはずがない。

「フェルディナンド様」

ローゼマインが椅子から立ち上がった。

机を回り込み、私の前まで来る。

「何だ?」

「何だか、遠い目をしています」

「気のせいだ」

「本当ですか?」

覗き込むように顔を寄せられ、私はわずかに身を引いた。

近い。

先ほどまで一人のアウブとして観察していたはずなのに、こうして距離を詰められると、途端に調子が狂う。

「顔色は悪くありませんね」

ローゼマインの手が伸びる。

額に触れようとする細い指をつかんだ。

「何をする?」

「お疲れなのかと思っただけです」

「其方に心配されるほどではない」

「では、どうしてわたくしをずっと見ていたのですか?」

言葉に詰まる。

気付かれていないと思っていた。

「わたくしの仕事に何か問題がありましたか?」

ローゼマインの顔から笑みが消え、不安そうに眉が下がる。

相変わらず、こういうところだけは変わらない。

私が黙れば、すぐに自分が何か失敗したのではないかと考える。

「問題があったわけではない」

「では、何故ですか?」

逃がすつもりがないらしい。

つかんだままの手へ視線を落とす。

昔は、少し力を込めれば壊れてしまいそうなほど小さな手だった。

今は、領地の礎を満たし、アウブとして数え切れないほどの決定を下す手だ。

それでも、私の手の中に収まっている。

「……其方を見ていたかっただけだ」

口にしてから、失言だったと気付いた。

ローゼマインの目が大きく見開かれる。

私自身、何故そのような答えを選んだのかわからない。

監視していたとでも言えばよかった。

仕事の進み具合を確認していたと言えば、それで済んだ。

だが、ローゼマインは問い詰めるでも、からかうでもなかった。

頬をわずかに赤くして、困ったように視線を揺らした後、つかまれていない方の手で私の指先に触れる。

「それならば、もっと近くで見ればよいではありませんか」

今度は私が目を見開く番だった。

「其方は……」

「わたくしも、フェルディナンド様が遠くにいるより、近くにいてくださる方が安心します」

ローゼマインはそう言うと、私の隣へ椅子を運び始めた。

おそらく、本人には深い意味などない。

私が見ていたいと言ったから、見やすい位置へ来ただけだ。

私の動揺など知りもせず、当然のように隣へ座り、設計図を広げ直す。

「続きを考えましょう。フェルディナンド様」

「……其方は、少し自分の言動について考えた方がよい」

「またわたくしが何かしましたか?」

「もうよい」

私は溜息を吐き、設計図へ視線を落とした。

すぐ隣から、紙とインクの匂いに混じってローゼマインの甘い香りが漂う。

先ほどより近くなった横顔を、今度は悟られぬように眺める。

アウブとして考え込む表情も。

新しい未来を思い描いて輝く瞳も。

図書館への欲望を隠し切れない笑顔も。

全て私の知るローゼマインで、私の知らなかったローゼマインだ。

これから先、彼女は私の知らない表情をいくつ見せるのだろう。

アウブとして成長し、領地を変え、多くの者から敬意と好意を向けられるようになる。

それを誇らしく思う一方で、その全てを誰にも見せたくないと思う自分もいる。

なんとも身勝手な感情だ。

「フェルディナンド様、また手が止まっていますよ」

「誰のせいだと思っている?」

「わたくしですか?」

「他に誰がいる」

ローゼマインは納得できないという顔をした後、ふっと笑った。

「では、お互いに仕事を進めるため、少し離れますか?」

椅子を動かそうとする手を止める。

「その必要はない」

「けれど、わたくしのせいで集中できないのでしょう?」

「慣れれば問題ない」

離れられる方が問題だとは言わなかった。

ローゼマインは首を傾げながらも、素直に設計図へ戻る。

再び二人分の呼吸と、紙を捲る音だけが部屋を満たした。

今度は手元の文字が、先ほどよりも頭に入ってこない。

だが、隣にある温もりを手放すよりはよい。

アウブ・アレキサンドリアを観察する時間は、これからいくらでもある。

彼女がどのような領地を作り、どのようなアウブになるのか。

最も近い場所で、私が見届ければよい。

……他の誰にも譲るつもりはない。