ユストクスは、フェルディナンドの表情を読むことにかけては、誰にも負けない自信がある。
眉間に刻まれる皺の深さ。
視線を向ける角度。
指先が机を叩く間隔。
他者には同じ無表情に見えても、長年仕えてきたユストクスには、機嫌の良し悪しも疲労の程度も大体わかった。
社交用の笑顔など、なおさらだ。
口元は美しく弧を描いていても、瞳の奥には何の感情もない。相手を信用させるために計算された、隙のない笑顔である。
だからこそ、ユストクスは気づいていた。
フェルディナンドがローゼマインを見る時だけ、ごくわずかに目元を緩めることに。
◇
「フェルディナンド様、今、少しよろしいですか?」
執務室の扉が開き、弾んだ声が響いた。
フェルディナンドは書類から顔を上げる。
「君の言う『少し』ほど信用できぬものはない。先触れもなく執務室へ入ってくるなと、何度言えば理解するのだ?」
声は冷たい。
眉間には皺が寄り、歓迎しているようには到底見えない。
けれど、書類を読む手は止まった。
フェルディナンドは卓上に散らばっていた資料を自分の方へ寄せ、隣に書物を広げられるだけの場所を空ける。セルギウスへ視線を向けただけで、ローゼマインのための茶が準備され始めた。
ユストクスは手元の書類へ視線を落とした。
見ていないふりをするのも、優秀な側近に必要な能力である。
「きちんとリーゼレータとコルネリウスが一緒ですから、先触れがなくてもよいかと思ったのです」
「供の有無と先触れは関係ない。私は今、執務中だ」
「でしたら、これだけご覧くださいませ」
ローゼマインは全く堪えた様子もなく、一冊の本を差し出した。
「新しい印刷方法を試した本です。今までより細い線まできれいに出るようになったのですよ」
「見せなさい」
フェルディナンドは差し出された本を受け取った。
先程までの報告書よりも慎重な手つきで表紙を開き、紙質と印刷の状態を確認していく。
ローゼマインは当然のように隣へ座った。
「この頁をご覧ください。以前は潰れてしまった模様も、これほど細かく印刷できるようになりました」
「確かに精度は上がっている。だが、これだけの手間をかければ価格も上がるであろう?」
「そこなのです。技術を安定させるためには、もう少し工房へ予算を――」
「却下する」
「まだ最後まで説明していません!」
「結論は予算の増額であろう。君の話は最初の数言で大体わかる」
ローゼマインが不満そうに頬を膨らませる。
フェルディナンドは呆れたように息を吐いた。
それでも本を閉じて返そうとはしない。
頁を戻り、印刷された文字を指先でなぞりながら、先程より細かく確認している。
「この版を作った職人は?」
「新しく工房へ入った者です。細工師の経験があるそうですよ」
「その者に製法の改善点をまとめさせなさい。必要な道具と、今後どの程度まで生産数を増やせるのかも確認するように」
「では、予算をいただけますか?」
「報告を確認してからだ」
「報告が十分なら、検討してくださるのですね?」
「君は都合のよいところだけ聞き取るな」
フェルディナンドの言葉は相変わらず厳しい。
けれど、その目元は柔らかかった。
ローゼマインが新しい本について語るたび、ほんのわずかに光が宿る。彼女が期待に満ちた顔で覗き込めば、仕方がないとでも言うように目を細める。
そのような顔を、ユストクスはかつて見たことがなかった。
珍しい素材を手に入れた時とも違う。
研究が思いどおりの結果を出した時とも、難しい問題の解法を見つけた時とも違う。
純粋に、目の前の相手を好ましく思う者の目だった。
「フェルディナンド様?」
「何だ?」
「今日は少し、お疲れではありませんか?」
「そのように見えるか?」
「何となく、いつもより静かな気がします」
ローゼマインはフェルディナンドの顔を覗き込んだ。
目ざとい。
疲労や体調の変化にはすぐに気づく。フェルディナンド自身が隠したがっている些細な異変さえ、執拗に追及する。
それなのに、なぜ今の目の意味には気づかないのか。
「領主会議後の処理が続いているだけだ。問題ない」
「本当ですか?」
「君が予定外の案件を持ち込まなければ、もう少し早く終わるであろうな」
「やはり、お邪魔でしたか……」
ローゼマインは少し眉を下げ、本を受け取ろうと手を伸ばした。
「では、今日は持ち帰ります。お時間のある時に見てくださいませ」
その手から逃がすように、フェルディナンドは本を自分の側へ寄せた。
「既に半分まで確認した。今さら持ち帰る方が非効率であろう」
「ですが、お忙しいのでしょう?」
「途中で止められる方が迷惑だ。最後まで説明しなさい」
ローゼマインの顔が明るくなる。
「はい!」
その瞬間、フェルディナンドの目元がまた緩んだ。
ユストクスは危うく笑いそうになり、咳払いで誤魔化した。
「ユストクス、何だ?」
「失礼いたしました。少し喉に違和感があっただけでございます」
「体調管理には気をつけなさい」
「恐れ入ります」
フェルディナンドの視線が戻る。
ローゼマインは既に本の説明を再開しており、先程の落ち込みなど忘れたように頁をめくっている。
「この部分は、以前フェルディナンド様から教えていただいた方法を試したのですよ」
「私が教えたものとは違う。君が工房で扱えるように勝手に簡略化したのであろう」
「でも、元になったのはフェルディナンド様の方法です」
「原型がほとんど残っていないではないか」
「それでも、わたくし一人では思いつきませんでした」
ローゼマインは、ひどく嬉しそうに笑った。
「フェルディナンド様へ最初にお見せできてよかったです」
フェルディナンドは答えなかった。
ただ、ローゼマインへ向ける眼差しが、さらに柔らかくなった。
あまりにもわかりやすい。
けれど、そのことを指摘するつもりはなかった。
口にすれば、フェルディナンドはすぐに表情を消すだろう。今後はユストクスにさえ気づかせないよう、完全に覆い隠してしまうに違いない。
それは惜しい。
何より、長年仕えてきた主が、ようやく得たものだった。
誰かが訪れることを疎まず、自分の時間を分け与え、その者が笑うことを好ましいと思う。
帰りを待つ者がいて、喜びを真っ先に伝えに来る者がいる。
それをフェルディナンド自身がどのように呼んでいるのか、ユストクスにはわからない。
管理。
庇護。
アウブの補佐。
夫としての義務。
おそらく、もっともらしい理由はいくつも用意しているだろう。
だが、どのような言葉で覆っても、目に浮かぶものまでは隠しきれていない。
◇
「ずいぶん長居をしてしまいました」
説明を終えたローゼマインが立ち上がった。
「最初から半刻以上かかることはわかっていた」
「申し訳ございません。でも、お話できてよかったです」
「次からは報告を整理してから来なさい」
「気をつけます」
できるとは言わないのだな、とフェルディナンドが眉を寄せる。
「それでは、失礼いたします」
ローゼマインはリーゼレータとコルネリウスを伴って退室した。
扉が閉まる。
フェルディナンドはしばらく、その扉へ視線を向けたままだった。
やがて何事もなかったように机へ向き直り、ローゼマインが持ち込んだ本を、未処理の報告書よりも上へ置く。
「ユストクス」
「はい」
「何を笑っている?」
「笑ってなどおりませんが?」
「口元が緩んでいる」
自分のことには全く気づかないくせに、側近の表情には相変わらず目ざとい。
「新しい印刷方法に興味を惹かれたのでございます。アレキサンドリアでは、次々と珍しいものが生まれますね」
「研究の余地はある。工房から詳細な報告を出させなさい」
「予算についても検討なさいますか?」
「報告の内容次第だ」
フェルディナンドは淡々と答え、次の書類へ手を伸ばした。
けれど、ローゼマインの本は手の届く場所に置かれたままだ。
「フェルディナンド様」
「何だ?」
「……いえ。何でもございません」
ようございましたね。
本当は、そう申し上げたかった。
けれど、それを口にすれば、主は何のことかと冷たい目を向けるだろう。
あるいは、意味を正確に理解してしまえば、二度と目元を緩めなくなるかもしれない。
だから、ユストクスは何も言わずに一礼した。
フェルディナンドがローゼマインを見る時だけ浮かべる表情を知っているのは、長年仕えてきた側近のささやかな特権である。
もっとも、それを秘密にできていると思っているのは、フェルディナンドとローゼマインだけかもしれない。
主の変化を喜んでいるのは、自分一人ではない。
廊下へ出たところで、ユストクスは少し先にリーゼレータの姿を見つけた。ローゼマインを送り届けて戻ってきたらしい。
二人の視線が合う。
リーゼレータは何も言わず、穏やかに微笑んだ。
ユストクスも黙って笑みを返す。
言葉を交わす必要はなかった。
あれほど目ざといローゼマインが、自分へ向けられる好意だけには気づいていない。
そしてフェルディナンドも、自分がどれほどわかりやすく彼女を好いているのか気づいていない。
側近達が見守るべきことは、まだしばらくありそうだった。
