ぱらり、と紙をめくる音がする。
フェルディナンドは手元の報告書から目を上げた。
寝台の反対側では、ローゼマインが枕を背にして本を読んでいる。就寝のために髪を下ろし、薄い夜着の上から肩掛けを羽織った姿は、日中よりずいぶん幼く見えた。
視線に気づいたのか、ローゼマインが本から顔を上げる。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
「そうですか」
それだけで会話は終わり、再び紙をめくる音が響く。
星結びを終えてから、寝室にはローゼマインの本が増え続けていた。最初は枕元に一冊だけだったはずが、今では小さな書棚まで置かれている。側仕え達が「ここは図書室ではございません」と苦言を呈していたが、本人は全く気にしていない。
フェルディナンドの資料も増えているため、強くは言えなかった。
静かな部屋に、二人分の呼吸と紙の音だけがある。
それは奇妙な時間だった。
同じ部屋にいるのに、互いに別のものを読んでいる。会話もなければ、視線を合わせることさえほとんどない。
それでも、不思議と落ち着いた。
「フェルディナンド様」
「何だ?」
「まだお休みにならないのですか?」
いつの間にか報告書を読む手が止まっていたらしい。ローゼマインがこちらを見ている。
「君こそ、いつまで本を読んでいるつもりだ」
「もう少しです。あと三十頁ほどですから」
「少しの基準がおかしい。明日にしなさい」
「でも、フェルディナンド様もまだお仕事をしているではありませんか」
当然のように言い返され、フェルディナンドは眉間を押さえた。
「私は君の読書灯が明るくて眠れぬのだ」
「あら。それは申し訳ございません」
ローゼマインは素直に本を閉じた。
珍しいこともあるものだと思った直後、彼女は本と読書灯を抱えて寝台から降りようとした。
「では、隣室で読んできますね」
「待ちなさい」
考えるより先に手が動いた。
細い手首をつかまれたローゼマインが、不思議そうに振り返る。
「どうされました?」
「……ここで読めばよい」
「けれど、明るくて眠れないのでしょう?」
「隣室へ行く必要はないと言っている」
「なぜですか?」
なぜ、と問われ、言葉に詰まった。
読書灯がなければ眠れる。ローゼマインが隣室へ移れば、部屋は静かになる。睡眠を取るという目的だけを考えれば、それが最も効率的だ。
にもかかわらず、そのまま行かせる気にはなれなかった。
手首をつかんだ指に、わずかに力が入る。
「フェルディナンド様?」
「……君がいなくなれば、余計に眠れぬ」
口にした瞬間、己の失言を悟った。
ローゼマインが目を瞬かせている。その表情が徐々に明るくなっていくのを見て、フェルディナンドは顔を背けた。
「それは、わたくしと同じ部屋にいたいという意味ですか?」
「解釈まで逐一説明させるな」
「確認は大事ですよ。フェルディナンド様は遠回しすぎるのです」
「君にだけは言われたくない」
ローゼマインは本を胸に抱えたまま、寝台へ戻った。
けれど、読書を再開しようとはしない。こちらをじっと見つめている。
「何だ?」
「フェルディナンド様は、いつも『君の望みだ』『君が選んだ』とおっしゃるでしょう?」
「事実であろう」
「では、今夜はフェルディナンド様の望みを教えてくださいませ」
また厄介なことを言い出した。
「先程、答えたはずだ」
「いいえ。わたくしが隣室へ行く必要はない、とおっしゃっただけです」
「同じことではないか」
「全く違います」
ローゼマインはひどく真剣な顔をしていた。
「わたくしの望みではなく、アウブの命令でもなく、最も合理的な方法でもなく……フェルディナンド様は、どうしたいのですか?」
答えようとして、言葉が出なかった。
望みなど、口にする必要はないと思っていた。
欲したところで手に入るとは限らない。むしろ、大切に思えば思うほど、それは取り上げられる。ならば最初から望まず、自分の手から遠ざけた方がよい。
かつては、そうしてローゼマインをエーレンフェストへ置いてきた。
自分がいなくても生きていけるように、彼女と側近達を教育した。必要なものを残し、危険を遠ざけ、彼女が自分を必要としなくなる未来を整えた。
それが最善だと思っていた。
だが、ローゼマインは国境を越えてやって来た。
王命も、礎も、領地の境界さえも踏み越えて、勝手にフェルディナンドの未来を書き換えた。
そして今、同じ寝台の上で、彼の答えを待っている。
「……君が」
声が思いのほか低くなった。
「君が、ここにいることだ」
ローゼマインが柔らかく笑った。
「では、わたくしと同じですね」
彼女は読書灯を消し、本を枕元へ置いた。
途端に部屋が暗くなる。
「読み終えなくてもよいのか?」
「明日、読みます」
「珍しいこともあるものだな」
「だって、明日もここで読めるのでしょう?」
明日も。
あまりにも当然のように告げられた言葉が、胸の奥へ落ちる。
「明日も、同じ場所で目を覚ませますよね?」
「毎晩、確認するつもりか?」
「必要ならば」
「……必要ない。明日も、その次も同じだ」
「約束ですよ」
暗闇の中でローゼマインの手が伸びてきた。指先が探るように寝具の上を動く。
フェルディナンドはその手を取り、自分の方へ引き寄せた。
「わざわざ確認せずとも、君はここにいればよい」
「それはフェルディナンド様の望みですか?」
「何度言わせるつもりだ、この馬鹿者」
「ふふっ。おやすみなさい、フェルディナンド様」
「ああ。おやすみ、ローゼマイン」
しばらくすると、隣から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
相変わらず警戒心の欠片もない。こちらを信頼しきった寝顔に呆れながら、フェルディナンドは握った手を離さなかった。
明日の朝も、彼女はここにいる。
目を覚ませば、きっと寝癖のついた髪で本を探し、朝から側仕えに叱られるのだろう。フェルディナンドにも読書時間の延長を要求し、仕事を増やし、予定を乱すに違いない。
そんな面倒ばかりの明日を、待ち遠しいと思う。
それはかつて、望むことすらなかった未来だった。
フェルディナンドは目を閉じる。
二人分の呼吸が重なる静かな寝室で、いつになく穏やかに眠りへ落ちていった。
