龍宮の夜は、どこか現実離れしている。
水面に映る月がゆらめくたび、まるで世界そのものが呼吸しているようだった。
「こんなところにいたのか、巫女さん」
低く、よく通る声。
振り向く前に分かる。
「……政宗さん」
「名前を呼ばれて、嬉しそうな顔するじゃねえか」
灯籠の柔らかな光の中に立つ彼は、相変わらず絵になる人だった。
派手な装いも、余裕の笑みも、すべてが自然で——視線を奪われる。
「探してたんですか?」
「ああ。宴を抜け出しただろ」
少しだけ眉を下げて、彼は肩をすくめた。
「主役がいねえ宴ほど、つまらねえものはねえからな」
胸が、小さく跳ねる。
「私が主役、ですか?」
「当然だろ」
迷いのない即答。
政宗さんはゆっくり近づいてくると、私の隣に腰を下ろした。
距離が近い。
近すぎる。
水面に映る月よりも、彼の視線のほうが眩しくて——思わず目を逸らす。
すると、不意に顎に指が触れた。
「逃げるなよ」
くい、と顔を上げられる。
「俺はお前の顔を見るために来たんだ」
鼓動がうるさい。
絶対に聞こえている。
「……政宗さんって、こういうこと、誰にでも言うんですか?」
冗談めかして言ったのに、彼は一瞬だけ目を細めた。
次の瞬間。
額に、こつん、と何かが触れる。
彼の額だった。
「誰にでも言うほど、俺は暇じゃねえ」
吐息がかかる距離。
「お前だけだ」
その声は、宴で見せる陽気な武将のものじゃない。
もっと低くて、もっと熱を帯びている。
「この龍宮に来てから、ずっと目で追ってる」
「え……」
「笑う顔も、困る顔も、全部な」
彼の手が、そっとあなたの髪をすくった。
「戦場じゃ、欲しいものは奪いに行く主義だが——」
指先が頬に触れる。
驚くほど優しい。
「お前だけは、無理に手に入れたくねえ」
心臓が、締め付けられる。
「だから待ってる。お前が俺を選ぶまで」
逃げ道を残してくれるのに、
その瞳はどこまでも自信に満ちていて——
まるで、選ぶ未来すら見えているみたいだった。
「……ずるいです」
「何がだ?」
「そんなふうに言われたら、好きになるしかないじゃないですか」
一瞬。
政宗さんの目が見開かれる。
けれど次の瞬間、破顔した。
「ははっ……参ったな」
そして。
ぎゅっと、強く抱き寄せられる。
胸板が温かい。
鼓動が伝わる。
「今の、取り消しはなしだぞ」
耳元で囁かれ、震える。
「離さねえからな。覚悟しとけ」
髪に口づけが落ちる。
「この先どんな時代に流されても——」
腕の力が、少しだけ強くなる。
「お前の隣は、俺の特等席だ」
水面の月が揺れる。
でももう、足元は不思議なくらい確かだった。
彼の腕の中にいるだけで、
ここが帰る場所だと思えるから。
「なあ」
「はい?」
「次は逃げるな。探し回るのは骨が折れる」
くすっと笑うと、彼は満足そうに目を細めた。
「——まあ、何度でも見つけるけどな」
その夜。
龍宮でいちばん甘い言葉は、
きっと誰にも聞こえていなかった。
あなた以外には。